e−たわごと No.358

投稿日 2007/02/26  暮坪かぶ異聞
寄稿者 八柳修之

暮坪かぶは、天正年間(1573〜1592)、近江の薬売りの近江弥右衛門が遠野の上郷、暮坪に持ち込んだものであることはすでに述べた。
暮坪とは面白い地名である。調べて見ると紫波町佐比内に暮坪という所があり「暮坪米」という有機栽培によるお米が栽培され、ネット販売もされているのである。そして、なんと暮坪かぶと暮坪米は、近江弥右衛門と繋がっていたのであった。

先に盛岡の近江商人のことについて書いた。盛岡に初めてやって来た近江商人は村井新七、慶長18年(1613)に「近江屋」を開き、以後、高島商人のわらじ脱ぎ場となり、故郷を出て商人を目指す若者の拠点となり、内和と呼ばれる系列商店網で発展していった。(たわごと、97〜100)

一方、近江弥右衛門が遠野にやって来たのは天正年間である。近江弥右衛門は村井新七より20年以上も前に岩手の地に足を踏み入れたのであった。
なぜ、遠野だったのか? それは砂金であった。
近江商人が砂金に目をつけたのは、南部の砂金は純度が高いにもかかわらず、小判との交換相場は砂金が1〜2割安かったからである。砂金を買い集め、これを上方で銀貨に替えると、ゆうに1倍半、5割以上の利を得ることが出来たからである。盛岡にやって来た村井新七も、最初、遠野に3年ほど居たことがある。表向きは薬売り、行商であるが、実際は砂金の買い集めであった。

弥右衛門は、近江国高島村村井の生まれ、近江を姓とした。天正年間に祖父、父、兄弟わせて7人が行商して遠野を訪れ、間もなくこの土地に居を定めたという。当時、遠野の近くには小友という最大の金の産地があり、各地に大小の金山が存在していた。

その後、祖父、父、長兄は遠野に落ち着いたが、次兄以下が当時郡山といわれた紫波の佐比内に移ったという。佐比内に移ったのは金山が開発されたからであった。遠野の弥右衛門は上郷の開発、佐比内の弥右衛門も、荒地の開墾、栗林の造林など地域の発展に尽くしている。
佐比内は旧彦部村、阿部和徳さんの故郷でもある。ご存命であれば「話しっこ」聞けたかもしれない。
ところで、写真で紹介したあの暮坪かぶ、息子の結婚式で一日家を空けたら、絶えてしまった。でも、田口さんにお孫さんも生まれたし、良いことがあった。
(2・26)
(参考資料:HP上郷聞書)
 
岩手の金鉱
 

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