e−たわごと No.359

投稿日 2007/03/10  北上夜曲
寄稿者 八柳修之
 
北上夜曲歌碑 (北上市HPより)
 
本年1月、安藤睦夫の死亡記事が小さく出ていた。享年82歳。安藤睦夫と聞いても知らぬ人が多い。だが、北上夜曲の作曲者といえば、そうかと思う程度であろうか。
我々の年代で北上夜曲を知らぬ人はいない。一度は口ずさんだ曲である。
この曲は盛岡のある女学校の生徒と○大生との悲恋をモチーフにしたものだなどと伝えられていた。作者不詳のまま口伝で盛岡では歌われていたが、昭和36年、和田浩とマヒナスターズが歌いレコード化されるや作詞者と作曲者が名乗り出た。作詞は菊池規、作曲が安藤睦夫である。

このことが明らかになる前、安藤は盛岡高等農林の学生で、父は教鞭もとっていたので、家に二三度来たことがあった。のちに安藤が、北上夜曲の作曲者と知った父は「あの安藤君が」と言って驚いた。県北の種市という所の山林地主の倅で、卒業後、家業を継いだとのことであった。
これだけの事なら、どおってことがない話しで、書くこともない。

調べてみると、この北上夜曲が作られたのは、太平洋戦争が始った時期、昭和16年12月、当時、菊池と安藤は17才の少年であった。歌詞も曲もご承知のように軟弱、この時代、軍国少年が歌う歌には相応しくない。
戦後になってから、流行ったものかと思ったが、なんと戦争が激化していた昭和19年7月ころには、軍需工場に動員された中学生によって歌われていたのだった。

 一昨年の8月「たわごと144 七夕」で、従兄が盛中4年のとき、平塚の軍需工場に動員され、戦闘機「疾風」のプロペラの製造をしていたこと、平塚東浜の花水川川辺にある日航住宅に集団生活していたことを書いた。
 ごく最近、ある人から、盛岡タイムズのHPに「戦時下の盛岡中学」(増田真郎)の特集の中に平塚動員の思い出が書かれており、従兄Kのことも出ているということを聞いた。
 「歌といえば軍歌、外に聞こえないように歌ったのが北上夜曲、K君によって伝えられ隠然として流行した。盛岡が目の前に見えるような歌詞とメロディは心を癒された」とあった。
 そのKとは、ほからならぬ昭和2年生の当時16歳の従兄であった。戦時下、動員された中学生にとって娯楽といえば歌を歌うしかなかった。軍歌一色の中にあって、密かに歌われたこの曲は少年の心をなぜか捉えるものであったようだ。なぜ、Kは北上夜曲をいち早くどこで覚えて皆に教えることが出来たのか。疑問である。だがKはすでに他界しており聞くことはできない。
想像するにKには一つ上の姉と三つ年下の妹がいた。二人とも白梅だったので、出所はその辺りだったのではないかと思う。ある地方都市に今一人暮らしの従姉に訪ねてみようと思いつつ、いつも年賀状は空手形ばかりになっている。

追記:盛岡タイムズのHP「戦時下の盛岡中学」(増田真郎)は、戦時下の中学生の様子を知る貴重な記録です。是非アクセスして見てください。
英語教師、トッチャンこと村井佐助先生のことも書いてあります。英語の百岡先生、工藤力さんの家の並びにお家(工藤家、奥寺家、村松家、百岡家)がありました。小学校の頃、ローマ字を習ったことをオベデいますか。堀合先生、ローマ字を知らなかったのかなぁ。
(3・10)

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