e−たわごと No.366

投稿日 2007/05/08  語る友は側にいなくとも PartU
寄稿者 吉田一彦

上田の下宿屋さん
 
(T)
 本町だかどこだか一軒だけ離れていた「・・・巴里に死す」を見た洋画専門の映画館はなくなったと思いますが、貴女のメールで拝見しますと、「上の橋」の古本屋さんはまだあったんですね!! やあ、感激だなあ。
 私の思い出の扉がまた1つ開きそうです。
 扉の中にしまってあるのは、 前の「 e-たわごと」(語る友は側にいなくとも)で一言だけふれた「上田の下宿屋さん」の話です。
 
 これは、あの晩、つまり盛岡で「古稀の
PartUの会」が開かれていた夜のことですが、私はこの会に出席できず、東京の自宅で貴女の写してくれた「梅の香」の写真と話していたときの小生のちょっぴり照れくさく、うら恥ずかしいような青春のひとコマでもあるのです。

 私がかつて旧労働省の本省で役人であった時代に一時労働金庫の担当課長をやっていたことがあります。
 岩手県庁ではこの労働金庫の監督の窓口は商工労働部でこのときの部長は後日副知事、参議院議員にまで栄進した高橋令則氏でした。
 彼は、盛一の先輩だったので、日頃から懇意にしてもらっていました。
 この当時、岩手労働金庫の理事長の人選をめぐってちょっとした揉め事がありました。
 
 労働金庫というのは簡単に言えば労働者の銀行で、頭取に相当する理事長はその県の労働界の大きな組織をバックにした実力者がなることになっています。
 この理事長の決定に大きな発言力を持っているのが岩手県の労働界のトップ(確か当時は県評議長といったと思いますが)O氏でした。
 
 私は、その人事の決定までの話のやり取りの中に出てきたO氏のフルネームを聞いたとたんに、昔私が盛岡に住んでいた時代にどっかで聞いたことがあるような名前だなあと思いました。しかし、なかなか思い出しません。
 ちょっと気になったので私は高橋部長に電話をかけてO氏の出生地や出身校などを調べてもらいました。
 
 その報告を聞いて私が頭に描いていたその人と同一人であるなと思いました。
 ときも時、私は、丁度いい塩梅に岩手県庁に出張することになりました。昼の仕事が終わって夜菜園の某料亭で高橋部長が一席もうけてくれて、その席にO氏も呼んで私に紹介してくれました。
 O氏の顔を見たときに私はすぐにわかりました。
30数年も経ってその人は恰幅も貫禄も昔とは全く違っていましたが、なんと・・・・・・・
 
(U)
 上田の下宿屋は、私が盛岡でお世話になった山本弥之助先生の奥様に見つけていただきました。
 下宿屋の女主人とお知りあいだとか。それまで暮らしていた菜園の水産会社の中年の小使さんの運転する荷物運搬用の三輪オートの助手席に先生の奥様、荷台に机、ふとん、行李一個と私が乗り込んで、某月某日上田の下宿屋に引っ越しました。
 奥様は昨年93歳でお亡くなりになりましたが、私なんかのためにこんなことまでしていただいて、今考えても本当に涙が出そうになります。
 この引越しは、附属の3年のときでしたが、銀杏の葉っぱが黄色く染まった季節のことだったでしょうか。
 
 下宿には、当時東京から来ていた岩手医大生2人、黒沢尻出身の岩大生2人、陸前高田出身の中学生1人と附中生の私の6人が入っていました。
 下宿には、娘さんが2人いて、下の娘さんは私よりも3歳上のなかなかの美人で岩女の2年生でした(彼女は年上ですが、よく下世話には下宿の娘さんと仲良くなる話がありますが、確かにもやもやしたものはありましたが、それどころではなく当時は私の頭の中は宮古の後光のさしたデビルと二高の制服の君達で一杯でしたから・・)
 
 医大生2人と中学生2人が、賄いつきでしたが、岩大生2人は自炊でした。
 私は、ライスカレーが大好物で、ごく最近まで自分の食べるカレーは妻や娘のものとは別に昔の母流のカレーを自分で作って食べていました。
 当時も下宿屋の食事の中ではライスカレーの時が私には一番のご馳走でしたが、そのときには下宿人全員が揃って一皿食べ、食事の時間が終わってからまた私だけがこっそりと食事用の座敷に戻ってもう一皿娘さんのご好意でカレーを食べさせてもらっていました。
 自炊の岩大生2人は、よく金欠病にかかり、そんなときには通りの魚屋から安い鯨の肉を買ってきては部屋で七輪のコンロに火を起こして鯨鍋をやり、餅を入れて食べていました。
 この二人は、人のいい人達で鯨の鍋をやるときには私をよく呼んでくれました。
 私も食欲の旺盛な年頃ですから、腹をすかしているだろうと思ってくださっているのか、彼らはしきりに鯨鍋を私に進めてくれました。
 しかし、私は、血生臭い匂いのするような鯨の臭みや食感が苦手で、とても食が進みません。
 「遠慮しないで食べなさい」としきりに進めてくれるので、食べないわけにもいかず、私は我慢して目をつぶって食べていました。当時の安い鯨肉は今と違って匂いもきつかったような気がします。  
 
(V)
 医大生は医大生で、解剖の実習があった日などはゲロゲロして食事も喉を通らないようでしたが、その割には若い女の人が東京から訪ねてきてはよく軟派をしていました。私も年頃ですからそんなときにはとても気になって仕方ありませんでした。
 
 それから中学生の同級生のS君。
 彼も上田かどこかの中学を卒業すると私と一緒に盛一に進学しました。
 私はこの頃は東大だけが大学だと思っているようなガリガリの時代で、高校に入ってからは毎日午前4時ごろまで勉強していましたが、彼は私が電気を消すまでは絶対に電気を消さず、私が12時過ぎに彼の部屋を障子を開けてこっそりと覗いてみると、大抵電気をつけたまま寝ていました。
 
 私は、やることがいつも最後になると失敗する宿命にあるようです。
附属や高校のこのときもそうですし、官界のときもそうでした。初めの頃は「一発やってやるぞ」と意気込むのですが、最後になるといつも気をぬくんでしょうか、総崩れになる悪い癖があります。
 このときも盛一の肝心要の3年のときにはこの間も書いたように勉強しないで映画ばかりを見ていました。
 
 (私は、ちゃんとした映画も見ましたが、長町の『銀星座』といいましたか、安い二本立てか三本立ての映画館によく行きましたねえ。デビューしたばかりの本当に綺麗だった頃の岸恵子の『佐渡島エレジー』をここで見て、うっとりして・・・ずっと何十年か後に新潟県庁に転勤して、佐渡島に初度巡視に行く佐渡汽船の中でまず『銀星座』で見たこの映画のことを思い出しました)
 
 しかし、つい最近古稀を迎えるようになってからやっと気がついたのですが・・・
 
 よくよく考えてみれば、当時は映画を見るぐらいで何か人殺しでもしたような罪悪感を感じていましたが、そんな生活のほうがごく普通の生活(?)で、365日午前4時まで受験だけの勉強してるような生活のほうが異常なんですよね。
 
 私は、上田の下宿から「上の橋」を通っての附中への道路と一高に入学してからは、ベルが鳴ってから飛び起きて駆け込んでも間に合うような校舎への近道と夏休みと冬休みには宮古の家に帰るための清流の流れる国道106号線をいったりきたりするだけの味気ない生活をしていました。
 
 本だって教科書や受験参考書以外は全く読んだことはなかったし、八幡平や岩手山や小岩井にも行ったことはありません。
 NHKテレビの「どんど晴れ」に出てくるような満開の「小岩井の一本桜」の木の下で、黒髪匂う誰かさんと手でもつないでゆったりとした気持でデートでもしていたら、今頃は人々を感動させる大ロマンが描ける作家になっていたかもしれませんよね。
 
 何も無理しなくても入れる大学に入ればよかったんです。
 たとえ新橋のハリウッド大学でもね。
 次のWでは、菜園の料亭の場面からスタートします。
 
(W)
「昔、上田の下宿屋で一緒だった岩大に通っていらしたOさんでしょう?」
「そうですよ。あなたは附属から一高に入った吉田君。あの吉田君ですか?一高の2年のときでしたか、北山に引っ越して行った」
「そうです。下宿のおばさんには盛岡にいる間はずっとうちにいてくれといわれていましたが、ある事情から涙を呑んで2年のときに北山の盲学校の側に引っ越しました。盛岡では4年暮らしていましたが、なんと住んだところは3箇所でした」
「懐かしいなあ!!吉田君」
「はい、上田の下宿ではOさんにはよく鯨鍋をご馳走になりまして・・・・」
「あの頃私達はお金がなくてね。そうでしたね。よく鯨を買ってきては鍋にして食べていましたね。あの時はあれで美味かったですよね」
「ええ・・・」
 私は、仕方なく小さな声でお義理に調子を合わせました。
 二人は、高橋部長はそっちのけで大体そのような会話を交わしながら30数年ぶりに酒を酌み交わし、昔を懐かしみました。
 それにしてもなんと言う奇遇でしょうか。
 あの上田の下宿屋の二階の狭い板の廊下の3メートルぐらいしか離れてないところで一緒に生活した二人が・・・
O氏はそこから学校の教師となり、岩手の教職員の組合運動のリーダー、そして岩手の主要な組合を束ねる指導者となり、参議院選への出馬(山中さんなら誰だかすぐに分かるでしょう)、
 一方の私は華(?)の労働官僚となって国全体の労働運動に係わる労政行政に携わるようになろうとは・・・・

「私はあなたが盛岡に見えると高橋部長から聞いたもんですから、女房に主婦の友?(昔岩手で寝具を月賦で販売していたレトロな会社があったでしょう。名前がどうしても出てきませんが)から新しい布団を買わせてお待ちしておりました。今晩うちに是非泊まっていって下さい。女房も喜ぶと思いますから」
 
 私は、Oさんの昔とちっとも変わらない思いやりがとても嬉しかったけど、当時岩手は何分にも労金の問題でごたごたしていましたので、誤解を受けてもまずいと思い婉曲にお断りしました。

 その夜は、高橋部長と3人で盛岡の暗い街をふらふらとあちこち探訪しましたが、どこをどうほっつき歩いたのか、とんと忘れてしまいました。
 
(X)
 絢子さんのIWAYAMAの「旧県立中央病院跡地の梅の香」の写真と貴女の「『上の橋』の本屋はまだありますよ」というメールで私の懐旧の心に火がついて、PartUは 私の独りよがりの思い出話からご期待通りの「たわごと」になったようです。
  
 人間も年を重ねて、盛岡で2回にわたって盛大に祝ってもらったような古稀を過ぎると(えーと私は本当のことを言うと古稀は来年ですが??)
 何も怖いものはなし、泰然自若としたものですよ。えっ、へっ、へっ・・・・・・
 

 
昭和 26 年秋の中学校の文化祭に出展するために撮った御田屋清水の写真と上の橋です。
上の橋の背景には川岸の二階建てアパートが写っています。
昭和 18 年に父が単身で引っ越してきた当時、住んでいたところです。
(竹生健二)
 
昭和11年創業の古本や「東光」は健在です
(田口絢子)
 

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