e−たわごと No.371

投稿日 2007/06/20  山中莞爾さんの訃報に接して
寄稿者 吉田一彦

 山中莞爾さんの訃報のメールを読んだのは、19日の朝、私が勤めている会社の仕事で新潟に出かけようとする日の朝であった。
 私は、先日、附中会をモデルに小説『かもめになった仲間たち』を書いたばかりで、主人公の神谷薫が暮らしている新潟に「チャイカの会」の仲間達が楽しい旅行に出かけるシーンを設定したのだが、それと山中さんの訃報が偶然にも重なって一瞬私は驚愕した。

 第1回の附中会が山中さん達の肝いりで東京の渋谷で開かれたのは昭和53年の1月29日であった。
 IWAYAMAの何かの文章に盛一を卒業して盛岡を離れてからこの日以前に附中会のメンバーの誰ともあったことはないと私は書いているが、実は、告白すると山中さんとは、60年代のすざまじい安保闘争のデモ華やかなりし頃に、当時お茶の水にあった黄昏の中央大学のキャンパスで会っている。
 そのとき山中さんは、授業が終わり、ベンチに一人で座って休んでいた。私の方はこれから授業を受けようとしているときであった。
 附六会の高野善夫さんは、メールの中で、附中時代の山中さんの輝かしい勇姿について書いておられたが、当時荒んだ精神状態にあった私には中大キャンパスでの山中さんの姿のほうが心に鮮明に焼きついている。

 渋谷で第1回が開かれた附中会は、今日まで約30年間衰えることをしらず続いている。
 これは、誰もが認めるように、山中さんと相棒の田口絢子さん達の献身的なご苦労によるものである。
 私は、官僚として30有余年殺伐とした競争社会の中で死に物狂いで生きてきたが、いつもずたずたになるとこの附中会という癒しの中に逃げ込んで、羽根を休めてきた。
 いわば附中会があってこそ、私は、官僚として思い出に残るような仕事(労働安全衛生法の策定、男女機会均等法の制定や国鉄改革への参画)が出来たと感謝している。
 そんなことで、附中会は、私にとっては、盛岡一、岩手県一、いやはや日本一のクラス会だと誇りに思っている。
 これは、山中さんの功績に負うところが多大である。

 平成12年10月の松島での附中会で山中さんと同室になった。このとき初めて彼としみじみと話をした。
「私の妹が肝臓がんになって、看病のため毎日病院通いをして・・・」
 私の愚痴を聞いてくれた山中さんは
「私も肝臓が悪くて病院通いをしてるんですよ・・・・・」
 と言って彼独特のシャイな言い回しで私を慰めてくれた。
 妹は、この直後58歳で遠い星の彼方に旅立って行ったが、「古稀IN盛岡」が終わった頃山中さんが入院してることを田口さんから聞いててっきりこの夜のことを思い出して、山中さんは肝臓でも悪いのかなあと心配していた。
 
 山中さんもまだまだ心残りなことは沢山あったと思うが、がんという病気は、正常な意識のある人をある日突然別の世界に引きずっていく残酷な病である。
 
 この松島の思い出深い山中さんとの語らいに引かれて、私が生涯忘れることの出来なくなったガンちゃんとの最後のお別れをするために、私は21日の朝一番の「はやて1号」に飛び乗った。
 「ガンちゃん、アザー・ワールド(黄泉の国)でも温もりのある附中会を作って待ってて下さいね」
 北へ急ぐ新幹線の中で、にっこりと微笑んだ彼の横顔を偲びながら、ずっとそのことばかりを私は願い続けていた。
(完)

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