e−たわごと No.383

投稿日 2007/10/09  南部家余談 知って欲しい南部英麿 (1)
寄稿者 八柳修之

10月1日、「靖国神社&港区に残る南部藩めぐり」があった翌日、袰岩さんから、
興味深いメールをもらった。早稲田大学の創立者は大隈重信であることは誰でも知っていることだが、その前身である東京専門学校の初代校長が南部家の人であるという話しである。この話は、早稲田OBではなくとも、みなさんには是非知ってほしい話であり、伝えて欲しい話なので紹介したい。
なお、以下の話は、袰岩さん、田口絢子さんからのメール、資料の提供をもとに八柳が編集しました。以下『 』内はメール、資料の引用部分。

先ずは火付けの袰岩さんのメールです。(昔、相馬大作のころ、秋田の火付け、津軽のかっぱらい、南部の○○と言われましたが・・・)
『あの日、八丁堀の旨い酒を飲んでいる内にフト頭の回線がつながりました。
早稲田大学は創始者大隈重信の人生125歳説にちなんで今年は125周年のいろんなイベントを仕掛けております。
大学の前身である東京専門学校が設立(1882年、明治15年10月)された時の校長は大隈英麿という人ですが、彼の旧姓は南部英麿(ひでまろ)といいます。
彼は陸奥国盛岡藩14代藩主 南部利剛(としひさ)の次男で大隈重信の養子に入った紛れもない南部家の人なのです。
今でも歴代学長が盛岡に来ると必ず旧桜山の南部家の墓所にある彼のお墓に お参りするのは、そういうわけなのです。
昭和7年10月10日発行「半世紀の早稲田」によると125年前の10月21日、
英麿さんは開校式で内外の著名人の前で「開校の詞」を読んでおります。
早稲田の校友は十万人といわれますが初代校長の名前を知っているのは当然のことながら ほとんどいないでしょう。(多少自慢ぽくなりました)

退席直前に南部家の淑子お姫様にこのことを質したら「あぁ英麿さんのことネ!」と明快にお答えになられました。
スピーチの際に八丁堀ではなくこの事をお話すべきだったなぁと臍を噛んでいます』(袰岩さんのメール)

このメールを見て私が最初に思ったことは、なぜ南部英麿が大隈重信の養子になったかの事情であった。
それには幕末から明治に至る盛岡藩の事情を知っておく必要があった。
『戊辰戦争(1868)で敗戦した盛岡藩は、明治元(1868)年10月9日、藩主南部利剛の名代摘子南部彦太郎(のち15代当主利恭 としゆき)をして総督府に降伏嘆願書を提出した。彦太郎、ときに11歳であった。利剛と彦太郎は共に東京に召喚され、菩提寺である芝の金地院に禁固となった。彦太郎は12月に白石(13万石)転封を命じられ、明治2年に利恭と改名して着任。ところが早々、70万両の献金を条件に盛岡藩知事となることが認められ盛岡に戻った。しかし、新盛岡藩は20万石から13万石に、献金も5万石しかできず財政ままならず、遂に明治3年7月、廃藩となった』(参考:山川出版 岩手県の歴史など)

前置きが長くなったが、英麿はおそらく、明治元年10月、父利剛、兄彦太郎(のち利恭)と共に東京に召喚されたものと思われる。金地院に幽閉されたかは定かではない。
 
金地院 南部家墓所 (撮影 高野善夫氏)
グーグルで検索しても南部英麿に関する記述は極めて少ない。専修大学120年史の中に南部英麿に関する僅かな記述と写真があった。教えてくれたのは高野善夫さんであった。なんと英麿はアメリカニュージャージー州ラートガス大への留学生18名の一員として写っていた。

その説明には『南部英麿は星学(天文学)を学んで帰国、大隈重信の女婿となった。大隈はこの息子の学力を活かしてやろうと、学校を建てたのが東京専門学校である。中列左から3人目が南部英麿、彼には面白からぬ理由で早稲田から離れた』とだけあった。
 
 
英麿はどうして留学することができたのであろうか。という新たな疑問が湧く。
少なくとも、父、利剛、兄、利恭と共に蟄居の身、藩の財政は破綻し、当時としてアメリカに留学させるような資力があるとは思えない。もう一度写真をよく見ていただきたい。明治4年(1871)に撮影したとある。英麿は安政3年(1856)の生まれであるから、僅か15歳のときの写真である。ほかの留学生の顔つきからみて最年少のようだが、聡明な少年に見える。なんらかの機会に大隈の目につき大隈がスポンサーとなったのではないかと想像された。

このことを袰岩さんにメールすると、即日、英麿さんの素朴な疑問と題し、次のメールが返ってきた。
『彼がなぜ養子に入ったのかは、おおかた貴兄の推察どおりと思われます。
不思議なのは養子に入ったはずの彼の遺骨が南部家に戻って、その菩提寺に埋葬されたということです。何か不都合を起こして勘当されたのか、はたまた別の理由であったのか。本来なら大隈家に祭られるのが筋だと思いますが、いずれ不自然ですね。淑子姫にでも次の機会に伺ってみたいものです。八丁掘で感じた姫の口調だと意外にあっさり謎が解けるかもしれません』

また、新たな疑問が起きた。面白からぬ理由、不都合なこととは何か。義父、大隈重信となにか確執でもあったのだろうか。
このメールがあった日に夜、袰岩さんから「英麿さんの追記」と題するメールがあった。
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