e−たわごと No.384

投稿日 2007/10/09  南部家余談 知って欲しい南部英麿 (2)
寄稿者 八柳修之

袰岩さんの「英麿さんの追記」と題するメールです。
『藩閥政府と対立して下野した大隈重信は、かねてから学校建設を模索しておりました。「卒業後は改進党でも自由党でも帝政党でも構わない。余は総ての学校を政党の外に独立せしめて・・」とすでに「学の独立」を謳っております。そして計画段階で後年 側近となる人たちにこう言っています。
「自分は早稲田に別邸を持っている。今回、養子英麿が米国で天文学を研究して帰り、理科の学校を開こうというので、それがために別邸内に小さな校舎を建てようかと思っていた。然るに今般、諸君の如き法律、政治、理財等を学ばれた同志を得たから理科のみならず政、経、法も教える学校を興そうと思う・・」
こうしてみると、早稲田の建学のきっかけはどうも養子の英麿さんにあったようです。そして、明治15年に東京専門学校は開校するわけですが、次に彼の名前が登場するのは明治20年8月になります。「校長大隈英麿が第二高等学校教授となって辞任したため、評議員前島密が新たに校長に就任した」以後 彼の名前は出てきません』

このメールで大隈重信が英麿のために学校を建てた事情は分かったが、養子にした事情、英麿にはどんな不都合があって大隈家から離れたかは、まだ究明されていない。
袰岩さんのメールを見終わるとほとんど同時に3枚のFAXが入って来た。
これまでのメールのやりとりをCC送っていた田口絢子さんからのものであった。このFAXは、これまでの総ての疑問を一気に解決するものであった。
(出典:時代の光景 旧盛岡藩主南部家のアルバムから 旧盛岡藩士桑田著)

ふたたび、明治維新、廃藩となった南部家の事情に立ち入らなければならない。
『廃藩を進言したのは家老東次郎であった。東は今後の南部家の立場を考え、藩主利剛(妻は徳川慶喜の姉明子)の長女、郁子(郁姫)と華頂宮博経親王との婚約を明治2年に成立させる。ところが、新婚早々、華頂宮は米国に留学することになった。華頂宮家は明治天皇の勅命により創立されたばかりで経済的に余裕がなく、南部家もまた火の車であった。東は思案のあげく東京で南部家の宝物展覧会を開き、これらを担保に各方面から金を集めた。東はこの際とばかり、英麿を一緒に留学させることにした。

明治3年8月、郁子の夫と英麿は横浜から出航した。不幸なことに華頂宮は留学中に病死する。一方、英麿は明治11年に帰国する。(米国には8年も留学したから、年は22歳になっていた。)帰国した英麿は内務省に勤める。帰国してまもなく横浜に向う車中で大隈重信の娘(長女)熊子と出会い、これが縁で、明治12年、結婚し大隈家の婿養子になった』

これで、英麿留学のスポンサーは大隈ではなかったことが、明らかになり、大隈が英麿を先ず養子にして、のち娘の熊子と結婚させたことではないことも明らかとなった。この記述では英麿と熊子との出会いが、車中での偶然の出会いのようであるが、額面どおりに受取ってよいであろうか。英麿はすでに22歳の立派な青年であったが、熊子はまだ16歳であった。当時16歳、嫁入り前の娘が一人で汽車に乗る訳はない。おそらく、大隈が英麿のことをあらかじめ調べ将来を見込んで仕組んだものであろうと推察される。
熊子は大隈重信の長女ではあるが、母美登とは大隈の維新政府出仕の頃に離別、その後、祖母、父重信、義母綾子と東京で生活している。大隈の熊子に対するおもいも特別であったと思われる。

『その後、明治15年、早稲田大学の前身東京専門学校の初代校長、第二高等学校教授、東京高等商業学校教授、明治31年には大隈の後ろ盾により衆議院に初当選’(進歩党)、35年の総選挙では憲政本党から当選している。このとき大隈重信と政敵であった原敬も初当選(立憲政友会)を果たす。
順風満帆に見えた英麿であったが、保証人となって数度多額の借金を背負ってしまう。熊子とは相思相愛であったが、額が大きく大隈家に迷惑を及ぼすのを避け、離縁せざるを得なくなった。35年9月、原は東や菊池武夫らと共に南部邸に呼ばれ英麿から報告を受けた。原敬日記には離縁に至るまでの経緯が詳しく書かれている。
南部姓に戻った英麿は東京を離れ、盛岡高等農林学校の英語講師などを歴任。優れた教育者として郷里に貢献、明治43年3月、54歳で死去した』
盛岡で暮らした晩年の8年間、英麿はどんな想いで日々を過ごしたことであろうか。なぐさめてくれたのは、岩手山の変わらぬ姿と川の流れではなかったろうか。

『一方、熊子は実母と夫に生き別れするという境遇をたどり、その生涯を大隈家の奥向き一切を仕切ることに費やした。熊子は学問、識見、時事の考察等、いずれも優れていたと言われ、大隈の政敵、犬養毅でさえ「熊子さんは男であろうものなら老候より偉かったろう・・・」と賞賛したという。熊子は昭和8年、70歳で亡くなった』(早稲田大学HP 大隈家に人々 長女 大隈熊子)
南部英麿の話し、めまぐるしい展開に中で謎解きも数日間で終わった。
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秋の一本桜 (撮影 袰岩弘道氏)
*四季の一本桜を撮影した写真は「盛岡発 039」で見ることができます。

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