e−たわごと No.386

投稿日 2007/10/20  南部家余談 知って欲しい南部英麿 (3)
寄稿者 八柳修之

南部家余談、南部英麿の生涯については、ひとまず解明できたものの、田口絢子さんから送られてきた資料をみると、新たなる疑問と興味が湧いてきた。
英麿は妻の大隈熊子と相思相愛であったにもかかわらず、他人の保証人となり、その履行を迫られ大隈家に迷惑を及ぼすのを避け、離縁せざるを得なくなったことは先に記した。
 
南部英麿 (出典:時代の光景 撮影年未詳)
 
明治35年9月13日、英麿は南部邸に東次郎(英麿をアメリカ留学させるべく資金を調達した南部藩最後の家老)、原 敬菊池武夫の三人を呼び、離縁に至る経緯を報告、その模様は原敬日記に詳しく書かれているという。

ミーハーな私は、英麿に保証人を依頼したのは誰であったのか。借金の使途はなんであったのか知りたかった。高野さんの興味は違っていた。英麿が呼んだ三人の一人、菊池武夫のことである。高野さんは例の熊本の本家菊池につながる人物ではないかという興味であった。
その謎を解く鍵はいずれにせよ、原敬日記を見ることが先決である。
近くにある市の図書館へ行ったがなかった。後日、神奈川県中央図書館に所蔵されていることが分かり取り寄せてくれることが分かった。しかし、現在、貸し出し中で2週間ほど待たねばならぬという。

ところで、高野さんが興味を持った菊池武夫なる人物である。ウイキペディアによると菊池武夫は三人ヒットした。有力なのは陸奥國岩手郡加賀野村出身の法学者である。この菊池は1854年生れ、1912年(明治45年)7月、58歳で亡くなっている。大学南校(のち東京大学)卒業、明治8年、初めての文部省の海外派遣留学生としてボストン大学へ留学、帝大講師を務め、中央大学の前身である英吉利法律校の創立メンバーの一人であり、のち東京法学院(英吉利法律校から改称)の学長を務めたとあった。
田口さん送付の「街」というタウン誌(2007年7月号)によると、盛岡藩士菊池長閑、茂の長男、武夫の名は、那珂梧楼によって名付けられたとあった。
高野さん〜! 那珂梧楼と菊池長閑との接点ありそうですよ。

東、原、菊池の3人が南部邸に呼ばれたときの年令は、年表からすると、家老の東次郎の67歳を別とすれば、英麿47歳、原と菊池は48歳、3人はほぼ同じ歳である。英麿がなぜ4人を呼んだのか、家老の東、原敬、菊池武夫の父はともに盛岡藩士という同郷、英麿と菊池はともに教育者で接点があったのであろうか。

ここで一つ訂正がある。田口さんから送られてきた資料「時代の光景 旧盛岡藩主南部家のアルバムから」によれば、『英麿の姉、郁子は家老東次郎の画策により、華頂宮博経親王と結婚、明治3年8月、華頂宮は英麿と同船で米国へ留学、華頂宮は不幸にも留学中に病死した』という記述がある。
これがHPなどで調べて見ると、どうも留学中に亡くなったわけではなかった。
華頂宮は米海軍学校に留学したが、明治5年8月、病気で帰国、その後、海軍で会計関係の仕事につき、9年5月、海軍少将で亡くなっている。
 
旧華頂宮邸 (鎌倉市浄明寺 鎌倉市HPより)
 
写真は鎌倉にある旧華頂宮邸、昭和4年建築されたものであるから郁子姫は住んだことはない。現在、国の有形文化財(建造物)に登録されている。
横道に逸れていたが、19日、待望の「原敬日記」が届いた。さて、明治35年9月13日の日記には、どのようなことが書かれているのだろうか。
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