e−たわごと No.387

投稿日 2007/10/28  南部家余談 知って欲しい南部英麿 (4)
寄稿者 八柳修之
 
南部 英麿 撮影年未詳
 
待望の「原敬日記」が届いた。真っ先に、明治35年(1902)9月13日の頁を開く。(平文に直し一部省略した)
「南部家において相談したい事があるので来邸してほしいというので赴いたところ、大隈伯に養子に行った英麿が、またまた他人の負債に調印したことによって(今回は2万円というが、この類の事は3回目である(注1)、英麿は大隈邸を去り離縁を求めて、目下その手続き中である。英麿よりこのような事態になったからには分家して平民籍になり、実家に迷惑が及ぶのを避けたいと言っているが、意見はいかがかと利恭伯より諮問があった。(注2)
出席したのは、東次郎、菊池武夫、南部春景、杉村濬(ふかし)と私(原敬)の5人。英麿もその意思を述べ、将来は教育事業にでも従事して身を立てたいと言った。こうなった以上は希望どおりにすべしという自分の意見に一同賛成した。なお、英麿に対しては、将来無頼の徒と交際を絶つ事を忠告した。この事はN、Y等(注3)英麿を欺いたことによって起こった事である。
彼らの悪計画はもとより悪い事であるが、要するに英麿が柔弱でたびたび彼らの毒手にかかっても悔いる事を知らなかった。ついに大隈家から離別させられた者で、如何ともする事は出来ないことであった。ただこの事は、丁度、南部家で夫人が亡くなって葬儀(注4)の際にもかかわらず、大隈家からしきりに迫って離婚の処置をしたのは随分無情な処置である」

(注1) 負債額は2万円しかも3回目とある。2万円と聞いてもピント来ない。当時の貨幣価値でどのくらいなものであったか。知りたいところである。
原敬日記に金銭の金額に関する記述は少ない。明治24年4月、原敬の年俸は1600円、手当て360円とあった。
ネットで調べたところ、明治32年、森鴎外(37才)軍医監(大佐相当官)の月給は200円、明治37年、小泉八雲(当時54才、早稲田講師 週4時間)の年俸は2,000円である。このことからして、2万円という金額は途方もない金額であることが分る。日記を丹念に読むと、岩手県人を語り財布を掏られたとか、有益な事業をやるからとか言って、お金を無心に来るものが実に多い。
免疫がない英麿はついつい騙され深みにはまっていたのであろう。

(注2)諮問会議委員は原敬、菊池武夫、東次郎等5名である。これら5人は南部家の財政、お家ごとについて諮問するメンバーであるが、いつの頃から原敬が委員になったのかは分からない。日記は明治8年から書かれているが、記述がないのでそれ以前からメンバーであったものと推察される。
諮問委員として、日記に名が出てくるのは、前述の5名のほか、奈良真志(海軍主計大監)、本宿宅命、阿部浩、一条基緒(家令:家務・会計を管理した人)がいる。
日記には、「明治32年6月17日、南部家の諮問委員たりところ辞した」とあり、原敬は諮問委員を辞めた後でも、南部家の信を得ていたものと思われる。

(注3) 日記には実名が記されている。子孫がおるやもしれずイニシアルとした。
(注4) 南部家の葬儀とは南部菊子の葬儀で5日にあった。菊子は誰の奥方かなのか分らないが、原敬は葬儀に出席している。

謎解きの執着は日記のとおりである。これ以上の事実の発掘はあろうか。
伝聞、推定ではなく最後は書き物だ。日記をつけることの大切さを認識する。10年日記も今年で終わる。毎日の生活に変化を求めて・・これからも書くことにするか。

謎解き、まだ終わらない人がいる。袰岩さんから次のメールがあったので、本人の了解を得て紹介する。
『英麿の謎解きの最中に東 次郎の名前を目にしました。放っておくと寝覚めが悪いので、手元の資料を見たら英麿があった! 「・・・・さらに藩主の次男英麿に奉じ、勤皇の大義を唱えようとしたが、時が遅く如何ともできなかった。奥州諸藩と共に当藩も降伏し、難局処理に起用された次郎は、利恭が70万両献金を条件に盛岡に復帰すると大参事に任ぜられ・・・。さらに利剛の娘郁子を華頂宮に輿入れさせ、皇族、利恭、英麿達を米国に留学させ有為の人材たらしめようとした」
しかも彼、次郎さんは鍵屋茂兵衛に物産商会を開かせているんですね。おまけに明治3年 利恭が全国に先駆けて廃藩置県を申し出たのも彼の献言によるものだとか。英麿からだんだん新しい世界が広がっていく。
菊池武夫を呼んだのも彼の法律学者・弁護士としての才能を見込んだことか。はたまた那珂悟楼楢山佐渡と一緒に逮捕されたということも調べていて始めて知った。奥が深いなぁ』(from horosan)
(完)

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