e−たわごと No.389

投稿日 2007/11/24  菊池金吾余談
寄稿者 八柳修之

調査リポート「菊池金吾と賜松園」を読んだという菊池貞武さんからお手紙をいただいた。先のリポートを若干修正、追加しなければならない。
菊池金吾は、細越弦二郎氏のメールにあったとおり、文化9年(1812)、稗貫郡亀ヶ森村(現大迫町)で農業を営む菊池弥兵衛の三男として生まれた。
貞武さんが、父上から聞いた話では、南部藩に奉公をするようになってから、金吾包貞(かねさだ)と名乗っていたというが、詳しいことは分かっていないという。
以後、菊池金吾包貞(かねさだ)⇒武(たけし)⇒第三(だいぞう)⇒俊雄(としお)⇒貞武と続き、貞武さんの名前は包貞と武からとったと聞いているという。先のリポートでは、金吾の息子、第三と書いたが、武という曽祖父がおられたそうで、筆者の間違いでした。訂正します。

貞武さん一家は、昭和20年3月の東京大空襲で被災し、父の故郷である盛岡に疎開、東京育ち、祖父が宮内庁式部官であったという環境からすれば、貞武さんが標準語(東京弁)なのも、むべなるかなである。
しばらくの間、餌差小路の賜松園で過ごしたそうで、明治天皇がお休みになられた「御成りの間」、欄間には「注連縄」が張ってあり、部屋の隅にはお使いになった寝具が積んであった記憶があるという。御成りの間は、既述のとおり中央公民館に移築され、また資料の一部は先人記念館に保存されているという。

金吾は明治26年5月、82歳で亡くなり、北山の聖寿寺(旧桜山、南部家菩提寺)に葬られ、墓碑は伊藤博文公の書によるものとのことです。・・・田口さんと袰岩さんにはもっと早く知らせればよかったですね。
そして、金吾が建てた機業場は元盛岡郵便局(現プラザおでって)にあった。明治天皇が機業場を見学されたことを示す碑が中津川側にある。碑は昭和十一年、盛岡市長大矢馬次郎謹誌 碑文は判読しにくいが、要旨は『明治9年7月6日天皇ご巡幸、7日機業場に臨幸、呉服町菊池金吾が経営していた機業場の跡地は今、赤澤亦吉の宅地、碑は亦吉と若干の寄付金によって建てられらものである』と印されている。
赤澤亦吉とは、盛岡郵便局の隣にあった「赤澤号」という大きな文房具屋さんのご先祖であろう。一年上に赤澤さんという双子の姉妹がいた。
また、盛岡郵便局といえば、局内の右奥に郵趣の窓口があった。貞武さんは切手展で入選するほどの収集少年であった。
(11・24)
 
明治天皇御臨幸機業場遺跡

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