e−たわごと No.390

投稿日 2007/12/27  いわてテニス事始
寄稿者 八柳修之

昨年後半はイワヤマと附六会の交流の「靖国と港区にある南部藩めぐり」に端を発し、南部家余談、菊池金吾余談で私のイワヤマは終わってしまった。
新春、話題を替えようかと思ったが、まだ南部家余談があった。岩手のテニス事始のことである。
八丁掘での懇親会、竹生さんに無実を証明してくれと言われたお姫様天井裏探検事件は、唆したと思われた高松さんを含めて「そんなの関係ない」ことが判明した。高松さんが淑子姫を唆したと思ったのは、二人が仲良しであったからである。特に二人が組んで、毎年5月の連休に開催される市民スポーツ大会の中学生テニス・ダブルスにおいて見事優勝、「南部のお姫さま優勝」という記事が岩手日報に掲載された記憶があるからだ。(波多野さん〜、日報の保存版で調べてコッピーを淑子姫へ送ってください。確か写真もあったような気がするが)
私は、南部さんのテニスはお嬢様テニスならぬお姫佐様テニスで、優勝は偏にスポーツ万能でもあった高松さんの力に負うところが多いと思っていた。
それには南部さんのテニス姿の記憶がないこともあった。実はそうではないらしいという話しである。

淑子さんが、テニスに関心を持ち日頃から練習し、またそのような家庭環境にも恵まれていたと想像される写真を見つけた。早大の前身、東京専門学校初代校長南部英麿の事を調べている過程で、田口絢子さんからお借りした「時代の光景」という本の中に貴重な写真があった。その写真は下の如くである。
上の写真の説明は「盛岡南部家別邸前でテニスをする瑞子(左)と利貞」とある。瑞子とは淑子さんの母上(おもうさま)、利貞とは瑞子の兄上である。
南部家43代当主利淳(日露戦争で戦死した兄利祥のあとを継ぐ)には一男一女、利貞と瑞子があった。ところが、この写真に写っている利貞は、昭和3年、18歳の若さで亡くなってしまう。このため、昭和4年、瑞子は一条実輝公爵の三男實英(のち利英)を養子に迎えることになる。テニスをする瑞子の姿は、まだあどけない少女である。ラケットの形からすれば軟式テニスであろう。
下の写真の説明は「この南部家別邸前のテニスコートは岩手県で最初につくられた」とある。正確な年月を知るべく、岩手県テニス協会に照会しているが、未だなしのつぶてである。

グーグルで調べてみると、日本にテニスが入って来たのは明治11年(1878)、アメリカのリーランドが文部省の体操伝習所に紹介したのが最初とある。普及のためゴムボールの軟式が主力であった。大正の初め世界NO、1のチルデンに善戦した清水や熊谷はいずれも軟式上がりであった。テニスは戦後活躍した宮城や加茂の時代まで、国際舞台では海外駐在の大手商社員が活躍したようだ。
南部別邸が造られたのは明治41年であるから、テニスコートが造られたのは、それ以後のこと、おそらく利淳公が岩手にテニスもたらしたものと推測される。当時、テニスは上流社会のハイカラなスポーツであったからだ。
早大の前身、東京専門学校初代校長の南部英麿とともにもっと知ってほしい話になるかもしれない。最後に言いたかったこと・・・淑子さんは瑞子おもう様のDNAをついでテニスの素質があったということである。
(12・27)
 
 

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