e−たわごと No.391

投稿日 2008/01/04  ブラジル移住の先駆者は盛岡藩士(1)
寄稿者 八柳修之

ブラジルで石油開発をしている会社の知人から年賀状を貰った。『1908年6月(明治41年)、約800名を乗せた第1次移民船「笠戸丸」がサントスに着いてから、本年はブラジル移住100周年を迎えます。現在、日系ブラジル人は150万人に達し、ブラジル社会で信頼を得て、様々な分野で活躍しています。一方、20年ほど前から日系人の「出稼ぎ」が始り、その数は31万人に達し、今年はペテロブラス(ブラジル最大の企業の石油会社)が沖縄に進出予定で新たなる日伯100年が始ろうとしています』
1908年、ブラジル官約移民(現在、移民という言葉は使わないが、歴史上の用語なので使用する)の立役者となったのは杉村 濬(ふかし)という盛岡藩士であった。外交官でカナダやブラジル移民に尽力した移民史上の先駆者である。
杉村 濬は私にとって謎の人物であった。杉村 濬は、例の南部英麿の借財に関して、1902年(明治35)9月、原敬、東次郎、菊池武夫ら5人とともに南部利恭公から南部邸に呼ばれた人物であったのだ。何者かと思っていたが、外交官であったのだった。
その杉村の功績が、移住100年にあたりブラジルでクローズアップされているので紹介したい。
 
杉村 濬  古武士然としている
 
杉村は1848年(嘉永元年)生まれ。文武両道、藩校の頃から頭角を現していた。1870年(明治3)廃藩置県で盛岡県となり23歳で上京、横浜毎日の論説記者をしたのち、1880年(明治13)外務省入省、釜山の領事館書記生が振り出しであった。1889年、カナダにおける日本人の増加の伴って新設された在バンクーバー領事館初代領事なる。また、1895年10月、閔妃殺害事件の容疑者として、在韓公使ほかとともに投獄されるが、のち証拠不十分で放免となる。一時、外交界から離脱させられたが、台湾総督府へ出向、外務省に復帰し通商局長となり、1904年(明治37)在ブラジル駐在の公使となる。初代、二代公使のブラジル移民は悲観的という報告とは180度違って、積極的に奨励・推進すべしというもので、識者の注目を浴び、日本政府の移民政策を転換させるものであった。
杉村が移民政策に関心を持つようになったのはバンクバー領事時代の体験によるものであると言ってよいが、それはのちほど触れることにして、その前に、それまでの日本の移住史を簡単に見てみたい。
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