e−たわごと No.392

投稿日 2008/01/04  ブラジル移住の先駆者は盛岡藩士(2)
寄稿者 八柳修之

日本人の海外渡航は、明治元年(1868年)、横浜在住のアメリカ商人が、労働者約150人をハワイの砂糖プランテーションへ、40人をグアムへ出稼として送ったのが最初であった。しかし、彼らは政府の許可も旅券もなく出国、その後、奴隷に近い扱いを受け明治政府が救出に乗りださねばならなかった。そのような失敗もあり政府は約20年近く海外移住を許可せず、北海道開拓を推進した。
1885年(明治18)ときのハワイ王国と二国間条約(官約)による海外移住が始り、1894年(明治27)までに約3万人がハワイに渡った。しかし、海外への永住を目指したものではなく、契約による出稼ぎ労働者であった。
1893年(明治26)日本も西洋と同様、国外市場の拡大し余剰人口を海外に向けて発展しなければならぬという主張のもとに外務省、知識人等が集まり「殖民会社」を設立した。1897年(明治30)には榎本武楊がメキシコに榎本殖民地を作ったが失敗した。この後1899年(明治32)にペルーへの最初の契約労働者約800人の渡航が始まった。
20世紀の初め、北米へ多数の日本人学生が渡航した。一部は東海岸の有名大学へ国費や私費留学をしたが、ほとんどは日本では経済的に中高等教育を受けられないために西海岸で仕事をしながら学校へ通う「スクールボーイ」と呼ばれる若者であった。一方で、農園などで働く出稼ぎ労働者も多く西海岸、カナダ西部に渡った。急激な日本人の増加は日本人排斥運動となり、1923年にカナダが、1924年にはアメリカが日本人の移民を禁止した。それとともにブラジルやペルーが日本人移民を受け入れるようになっていく。

では、杉村が何故にブラジルを新天地と考えるようになったのか。それはバンクーバー領事時代の体験に基づくものであった。
杉村が領事となったのは1889年5月(明治22)、 カナダにおける日本人の増加に伴い領事館が新設され初代領事に任命された。当時、バンクーバーとその近郊に約300人の日本人がいたが、杉村によれば「言語不適、風俗不案内、先導者ナシ、テンデバラバラニ渡航シテ職ヲ探スガ困難」仮に職を得ても漁業か探鉱労働者というものであった。こういった状況を見た杉村は、移民政策のあり方、移民としての適格性、教育、とくに定住のための農業会社の設立、土地購入の補助金制度などを日本政府に提言した。一方、この頃からカナダでは日本人排斥運動が起こりつつあり、この国での移民の困難を感じるに至り、北米・カナダから人種的偏見のないブラジルへと傾斜していった。

杉村がブラジル公使となったのは、1904年(明治37)、三代目の公使であった。初代、二代公使のブラジル移民悲観論とは違って、積極的に奨励・推進すべしという論で、識者の注目を浴び、日本側に有利な条件での契約を獲得し、日本政府の移民政策を転換させるものであった。杉村は状況を的確に捉え交渉し報告する能吏であった。日露戦争以来のブラジル人の日本人に対する敬慕、サンパウロは交通の要所にして移民のみならず資本家、企業家にとっても好適な地であるとし、外務省のみならず報告書を広く配布、新聞もこれを採り上げたのでブラジル移民促進の機運が醸成されていった。
第1回移民の引率者となった水野 龍が、移民契約のため、1905年12月(明治38)にブラジルにやって来た。杉村は大いに歓迎し、サンパウロ州内の耕作地視察に便宜を図った。だが、杉村は翌年5月、脳出血のため倒れてしまう。享年58歳、杉村の葬儀は国賓として盛大なものであったという。
それから、2年後、最初の移民船笠戸丸がサントスに着く。笠戸丸を見ずして・・・
しかし、杉村の衣鉢は息子、陽太郎に継がれた。陽太郎はイタリア、フランス大使、新渡戸稲造のあと国際連盟事務次長を務めた。杉村親子のことはほとんど知られていない。
(1・4 八柳)
 
笠戸丸 前身はロシア艦隊カザン、日露戦争時に病院船となり、旅順港内に沈んでいたのを戦後引き揚げ日本船にした。建造地はイギリスのニューキャスル、1900年進水
 
お詫び訂正:たわごと387 南部家余談 知って欲しい南部英麿(4) の中で杉村 濬(しゅん)とルビをふりましたが、(ふかし)の誤りでした。訂正します。
参考資料:山田廸夫著「船にみる日本人移民史」中公新書
Centoro de Estudos Nipo-Brasileiros HP  2007年11月17日付 ニッケイ新聞(日経ではありません) JICA HP

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