e−たわごと No.399

投稿日 2008/05/01  のらくろ
寄稿者 八柳修之
 
 
娘からパパが喜びそうな所を見つけたから来て見ないかという電話があった。聞くと、江東区森下に「のらくろーど」という通りがあり、のらくろの展示館もあるという。娘がまだ小さい頃、私が「のらくろ漫画全集」見ていたことを覚えていたからであろう。
この「のらくろ漫画全集」は、昭和42年5月に講談社から発行された復刻版、全800頁、田河水泡の為書もある代物であるからまだ処分していない。筋はともあれ、あの独特な歩いたあとの砂煙の表現、吹き出しの丸みなど覚えていた懐かしさから、大枚3,300円も払って購入したものである。まだ結婚前であったから買えたのであろう。我々はのらくろ世代ではないのだが、子供のころ、どこかで「のらくろ」を読んだことがある筈である。私は従兄が大切にしていたものを借りて読んだ。

都営新宿線の森下で下車、案内の表示に沿って5分ほど、高橋商店街は「のらくろーど」と名付けられ、のらくろの垂れ幕が下がり、グッズを販売するお店などありなかなか面白い通りである。商店街の先、江東区森下文化センター内に「のらくろ館」があった。田河水泡(本名、高見沢仲太郎 1899〜1989)が、本所で生まれ青年期まで過ごしたということで、平成11年に文化センター内の一角に記念館ができたものである。

中に入ると、原画や単行本などの展示、田河の仕事場も再現されていた。
のらくろは、昭和6年1月号から16年10月号まで少年倶楽部に連載された。のらくろは、子犬のときに捨てられたのら犬、それが二等兵からとんとん拍子で大尉まで昇進するのだが、昭和14年5月号をもって兵隊を辞めている。
最後のコマは「諸君、僕が猛犬連隊をやめたのは、深い考えがあってのことです」である。因みにのらくろの後任は「ハンブル大尉」。そういうあだ名の上級生がいましたね。
退役後、のらくろは大陸に渡り、探検や金山を掘ったりして過ごしているうちに、金山の開発会社の社長となっていたハンブルと会い、一社員となる話で16年10月号で終わっている。最後のコマは「自分は一生涯この穴ぐらにもぐって人に知られない地下資源を開発するために奮闘する決心をしました」である。

二つの最後のコマ、意味するところはなんであったろうか。ということに関心があった。それはこういう事情であった。大尉の次は少佐、位が高くなればもはや馬鹿な失敗は許されない、のらくろの持つコミック表現の限界と軍の圧力。16年頃からは大東亜の共栄圏、五族共和という時の政府の掲げた理想、政府の意向を無視するわけにはいかなかったのであった。
また、のち田河は義兄である文芸評論家小林秀雄に、「のらくろというのは、実は、兄貴、ありや、みんな俺の事を書いたのものだ」と語っていたという。
のらくろの滑稽さの中にもある一種の哀愁が流れているように感じられると、小林は語っている。それはサーカスのピエロに共通する笑いとペーソス、サクセスストリーの中に当時の少年の心を捉えたのであろうか。分らない。

田河水泡の弟子には長谷川町子、あんみつ姫の倉成章介がおり、そして戦後漫画界の隆盛の元となった手塚治虫の漫画、その原点こそは田河水泡にあったと手塚自らが語っている。今日、日本のアニメの輸出市場は100億円、世界のアニメの約6割を占めるという。
(5・1 八柳)

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