e−たわごと No.400

投稿日 2008/05/06  マッチ
寄稿者 八柳修之
 
 
子供の頃、マッチのラベルも蒐集の対象であった。父親がヘビースモーカーであったのがきっかけであった。しかし広告入りのマッチが出回るようになると、際限がないので止めてしまった。というより、私がマッチのラベルを集めていることが分ると、父親の勤め先の人が気に掛けて持って来てくれるようになった。種類が増えることは嬉しかったのだが、飲み屋、バーの類が多くなり教育上よくないと思った父が断ってしまったというのが真相である。

前にも書いたが、戦後、タバコ不足のとき、父はイタドリの葉を乾燥させ、亀が池の辺りにあった闇市で手巻きのタバコ巻き器を買い、コンサイス一冊ばらし巻紙としてのんでしまうほどのヘビースモーカーであった。書斎はいつも煙でもんもんとし壁の色まで飴色に変色していた。タバコの臭いが洋服にしみこみ、それが父の臭いであった。
そういう父親が子供たちの反面教師であったのであろうか、兄弟誰一人タバコを吸わない。父はきざみも吸っていたがキツイというので止め、タバコ盆は姿を消し、代わってちょっとしたライターを買った。
その後、我が家の第一次文化大革命により、薪を燃やす台所の釜戸や風呂釜がガス式に変わると、家庭用徳用マッチは姿を消した。

お話代わって、亀戸天神に藤を観に行ったとき境内に日本で最初にマッチを製造した人の紀功碑があるのを見つけた。清水 誠(1845〜1899、加賀藩士)フランス留学後、明治8年、三田四国町で黄燐マッチ製造に着手、9年、本所柳原町に本工場、新燧社設立したとあった。碑は当初、工場内にあったようだが戦災に遭いここに移されたようだ。明治13年にはマッチはすべて国産化され、次第に日本の輸出品ともなっていく。そのため、主力産地は神戸、姫路へと移っていったが、全国各地でマッチは製造されるようになった。
盛岡ではご存知のように川村さんのマッチ工場が名須川にあったが、今でも工場はあるだろうか。マッチに必要な材料は軸木と赤燐である。川村さんは川井村の山林地主で製材所も所有していた。一度製材所を見せてもらったことがあった。そして赤燐はおそらく三田商店から購入されたのでしょうか。

マッチ箱の思い出です。マッチ箱は検便容器に使いましたね。なかなか便を採って持って来ない子は学校で採便。それは無理だよね。なかには忘れて分けてもらった人もいたとか。クサイ仲、これこそ糞兄の友だね。ホントカどうか分りませんが、家庭用徳用マッチ箱いっぱいに持って来た生徒がいたとか。
今と違って衛生室(人体の骨格模型があった)の看護婦さん(岡田さんと言ったかなぁ?)が、プレパラートにのばして顕微鏡で観察するという大変な仕事でした。回虫が見つかるとサントニンという虫下しを飲まされました。
回虫持ちは花粉症やアレルギーにはならないというのは、東京医科歯科大学の藤田紘一郎先生のお話です。「笑う回虫」という本、面白いですよ。
写真のとおり、徳用マッチはまだ販売されているようです。
(5・6 八柳)

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