e−たわごと No.403

投稿日 2008/06/10  鶴丸
寄稿者 八柳修之

鶴丸とは翼を広げた赤いタンチョウヅルの日本航空(JAL)のシンボルマークのこと、その鶴丸が5月末で姿を消した。
日航第1号機もく星号が東京・博多間に就航したのは昭和26年(1951)10月、中学2年のときである。
三田智子さんは、お父様が搭乗記念にもらった鶴のシール(現在のような鶴丸ではなかったが)数枚、学校に持って来て見せてくれたことがあった。そのとき、シールをせがんでもらったことがあった。無理やり強奪したようなものであったが無くしてしまった。今あればマニアにはお宝でしょうが。
飛行機に乗ると気圧の関係で万年筆からインクが漏れるので、背広のポケットから取り出して吸取り紙の小袋に入れたという話も聞いた。三田さんのお父様三田俊定氏は、盛岡で初めて日航機に乗った人かもしれない。

翌27年4月には、もく星号が大島三原山に墜落し乗客全員が死亡するという事故もあった。そんな衝撃的事故もあったが、いつか飛行機に乗って見たいものだと思ったものだった。
 

日本航空HPより
 
34年、ジェット機DC-8が就航、このとき初代の鶴丸マークが制定された。父親が海外出張の際、アリタリア航空からもらったエアラインバックは、ちょっとしたステイタスシンボルのようなものであった。
39年に海外渡航が自由化され、お金さえあれば誰でも外国旅行へ行けるようになった。「トリスを飲んでハワイへ行こう」なんてCMもあった。当時、ハワイの往復運賃は30万円以上したと思う。やがて、JALパック、団体旅行全盛時代、JALのエアラインバックが巷に蔓延った。

初めて飛行機に乗ったのは、40年、全空輸、羽田・函館間のプロペラ機であった。あいにくの悪天候で下界は見られず、おまけに揺れた。
家族で飛行機に乗ったのは52年8月、子供たちが飛行機に乗りたいとせがむので、羽田・花巻間のプロペラ機に乗せた。このときも揺れた。
国際線に乗ったのは46年9月、羽田・NY間、JAL-071。その頃は日付変更線通過記念証をくれた。これは保存してあったが、なんの価値もない。
飛行機に頻繁に乗るようになったのは、57年、アルゼンチン勤務となってからのこと。国内はもとよりサンチャゴ(チリ)、アスンション(パラグアイ)、モンテヴィデオ(ウルグアイ)に月に2〜3度飛んだ。こちらでは出発・到着時間が1〜2時間遅れるのは当たり前のこと。聞くと、ちゃんと整備確認に時間がかかるのだという。ほんとかなぁ、政府要人の都合で遅らせられることはザラな世界だ。
サンパウロの空港(住宅街の真ん中にあり怖い)で、駐機中の日航機の鶴丸を見たとき、なぜかほっとした気持になったことは今でも忘れられない。駐在員仲間に聞くとみな「ツルを見るとほっとするよ」という。共通した想いのようだ。鶴丸が日の丸のデザインに近いものであるからであろうか。それともその先が日本へと繋がり望郷の念からであろうか。もう海外旅行することはあるまい。

今、日本の空はベテランパイロットの大量退職、燃料の高騰に悩んでいる。
日航は日本エアシステム(JAS)と統合し、社章が変わるとともに鶴丸も順次消えていった。Sさんは日航にお勤めだったと聞いたが、どうしておられるかなぁ。
鶴丸の歴史はSさんにとっては想い出深いものであろう。
(6・10八柳)

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