e−たわごと No.404

投稿日 2008/08/05  南部藩八百姫は御台所候補だった
寄稿者 八柳修之
 

大奥の跡は芝生となっていた

天主台から大奥跡を望む
 
NHK大河ドラマ「篤姫」、女性の視点から女性を主人公に幕末を描いていることもあってか、若い女性からも人気も得て高視聴率を維持しているという。
肝付尚五郎(のち小松帯刀)が篤姫に恋心をいだく青春編は原作にはないが、脚本家田淵久美子の妙というものだ。
天璋院篤姫、薩摩藩分家の今泉島津家の娘として生まれながら、徳川家13代将軍、うっつけともいわれた家定のもとに嫁いだ。江戸から明治へ、敵対する島津家と徳川家との狭間、御台所、嫁、姑としての篤姫、戊辰戦争では江戸城無血開城に大きく影響を与え、必死に徳川家を守ろうとした篤姫、波乱に満ちたその生涯には感動を覚える。宮尾登美子は「女の道は、前に進むしかない、引き返すには恥でございます」とその生涯を表現している。

ドラマでは篤姫が将軍家定の嫁候補として、薩摩藩主・島津斉彬に見初められ斉彬の養女となったところから始っているが、それに先立ち嫁候補が藩一族の中から八百姫、篤姫らが選ばれている。この八百姫、なんと実は遠く北の果て南部八戸藩主南部信順(のぶゆき)の娘であった。しかも八百姫は第一候補であった。最南端の薩摩と最北端の南部、長距離婚姻、どんな事情があったのだろうか。そして歴史にもしもはないが、もし八百姫が御台所になっていたら、歴史はどう変わっていただろうか。

さて、八百姫の父、南部信順(1814〜1872)は薩摩藩第8代藩主島津重豪(しげひで)の10男、24歳のとき、南部八戸藩第8代藩主、南部信真(のぶまさ)の養嗣子として迎えられ、4年後の1842年に家督を相続している。
10男とは驚きであるが、13男という記述もある。娘にしても分かっているだけで11女、そのほか養女とした者もあったようで男女あわせて53人もの子がいたとか。重豪は非常に頑健にして酒豪、曾孫の斉彬の才能を早くから見抜いていたという。

島津家はそれまで将軍や有力大名との婚姻を避ける傾向にあったが、重豪は積極的に政略結婚を進める政略に転じ、11代将軍家斉に三女茂姫(広大院)を嫁がせている。重豪の息子の養子先は有力藩が多い中で、当時、2万石程度の八戸南部藩への婿入りは、信順が10男なる故であったからなのであろうか。
ともあれ、南部信真の娘、鶴姫と婚姻、二男三女をもうける。八百姫は長女であった。八百姫は家斉の正室となった茂姫の姪にあたり、血縁から見て家定の正室の最有力候補であったようだ。しかし、すでにそのとき八百姫は島津家最上位の垂水島津家14代貴敦(たかあつ)との婚礼が決まっていたということで、篤姫が選ばれたという。南部八戸藩には将軍家への入室については、将来の諸状を案じたことがあったようだ。今上天皇、皇太子のお妃選びでもよく聞いた話である。

もし、八百姫が御台所になっていたら、南部の歴史も変わっていたであろう。
賢候といわれた斉彬が篤姫のことを「我々の如きものの及ばざるところにあらず」とその器の大きさを絶賛していることから、篤姫が適任だったとみたい。
一方、信順は戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の圧力を受けるが、うまく立ち回り戦闘に参加することなく、賊軍となることもなく八戸藩の存続に成功、明治2年、八戸藩知事となった。信順はまた日蓮正宗の信徒で、篤姫、斉彬も信順の勧めで帰依したというから、篤姫、斉彬とも親しい仲であったと思われる。

参考:天璋院篤姫と幕末動乱 新人物往来社
   天璋院篤姫 宮尾登美子 講談社  垂水市HP

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