e−たわごと No.407

投稿日 2008/09/23  遠野まつり
寄稿者 八柳修之

遠野は憧れの地、一度は行って見たい所であった。昨年9月、ふとしたことがきっかけで、附六会の高野さんと坂水さんとで初めて遠野へ旅行する機会に恵まれた。その折、東京から移住した細越弦二郎さん(細越麟太郎さんの弟さん)に三日間も遠野の隅々に至るまでご案内いただいた。(たわごとNO.378参照)
遠野をすべて見た気になっていたが、帰京前夜の席で細越さんから、「遠野にはまだまだ観てもらいたいものがあります。それはお祭、八幡さんのお祭のとき、遠野地域のすべての郷土芸能が観られるんですよ。なかでも南部ばやし、遠野にこんな文化があったかと驚きですよ。今度はお祭に合わせて来てください」と熱っぽいお奨めがあった。すぐ乗り易い三人は即OK、再会を約束した。
それから一年、今回の「南部家のルーツを辿る会」は、わざわざ、我々三人の予定に合わせて開催していただいたものであった。田口、袰岩両氏をはじめ皆さんに感謝です。

さて、遠野八幡宮の祭礼は、盛岡八幡宮と同じく9月14日、15日である。
今回の遠野行きはお祭を観るのが目的であった。遠野まつりは、二日間、メインストリートの穀町(こくまち)通り、一日市(ひといち)通り、駅前通り、全長約750メートルにわり、昼の部は12時〜16時、夜の部は17時〜21時半まで繰り広げられる郷土芸能のパレードである。その内容たるやお神楽、しし踊り、田植え踊りやさんさ踊りなどの手踊り、南部ばやし、お神輿など多岐にわたり、参加団体33、参加者数は多数である。(字数は新聞に発表されたでしょうが?) また、最近では広くPRのパンフレットが東京にも配布されているとかで、見物人も全国レベルになりつつ結構多かった。

関心のあった「南部ばやし」と「しし踊り」のことを少し書きます。
 
 
「南部ばやし」は、案内パンフによると「代表的な町方の踊り。祭礼にお供する山車のはやしです。遠野南部22代直栄(なおよし)が、寛文初年(1661)ごろ、遊芸師に命じて、京都の「祇園ばやし」を参考に、遠野郷の特色を入れて生み出した遠野独特の町方踊りです。・・・」とある。
           
踊りの隊列は、踊り子の少女が3〜4列、その両脇には小鼓を持った少年たち。
少女は頭に花のかんざし、赤い基調の着物の裾をはしょり、手甲と赤い脚半をつけ、一見、旅姿風である。ユニークなのはなぜか相撲のような化粧まわしを着けている。まわしには代々、家々に伝わっているものであろうか、家紋や屋号が縫いこまれている。鈴が手甲とまわしに着いていて、踊るたびにシャラシャラと鳴る。
スローテンポのリズム、踊りながらゆっくりと前に進むところが優雅さ、都らしさがあるのであろう。それに少女たちの着ている着物、私にはよく分らないが、かなりお金をかけた物のように見えた。
少女らは殆ど無表情、真剣そのもの、笑みの一つさえない。笑ってはいけないと指導されているのであろうか。たしかにへらへら笑ったのでは踊りそのもの本質が変わってくる。だが、少女達の表情と踊りには私にはある種の哀愁を帯びたようにも感じられた。当日は30度近くの気温とあって気の毒にも感じたが、この二日間のお祭の晴れの舞台のために毎日練習を重ねて来たのであろうから、ジジイの余計な心配というものであろう。殿は太鼓と三味線を乗せた屋台であり、引っ張るのではなく手押しである。同じ日、別な所でご覧になった田口さん、南部さんの目にはどううつりましたか。

ところで、なぜ南部直栄公が、京都祇園ばやしを参考に南部ばやしを創作させたのであろうか。京都の祇園ばやしを観たことがあるからなのか、それとも都への憧れのためであろうか。そんな興味も涌いてくる。
案内パンフでは直栄公は遠野南部22代とある。だが、調べてみると遠野郷は古くから阿曽沼氏が支配していたが、豊臣秀吉の奥州仕置により、慶長5年(1600年)南部領となった。伊達藩との所領をめぐる押さえ役として寛永4年(1627)、八戸南部氏の南部直栄が遠野に転封されたのであった。
さらに直栄が京に遊んだことがあり、祇園祭にいたく感銘したことがきかっけであったことが分った。グーグルは便利である。

「南部ばやし」が、静、優美な踊りとすれば、「しし踊り」は動、勇壮な大人の踊り、男の踊りであった。
もともと獅子は中国の想像上の霊獣である。獅子頭は目を大きく見開き、鼻は団子鼻、口を開けて相手を威嚇する厳つい風貌。豊作や幸福を祈願し太鼓と笛の音にあわせて踊る踊りは、形こそ違え全国的である。
案内パンフによれば、遠野郷のししは鹿、大和言葉ではししは鹿あるいは猪のことである。鹿は全国的に分布するのだが、しし踊りは極めて限定的で岩手と宮城に集中しているようだ。
遠野のしし踊りは背にカンナガラ、前には幕をたらして踊る「幕踊り」といわれるものである。もう一つは太鼓を前に抱えて踊る「八つ鹿踊り」といタイプがあり、花巻の鹿踊りはこれに属する。グーグルで調べると、四国の宇和島に「八つ鹿踊り」が見られるが、これは伊達政宗の長庶子であった伊達秀宗が宇和島藩主となったとき仙台のしし踊りを持ち込んだとのことである。
 
 
うんちくはそれくらいにして、遠野のしし踊りである。踊りと太鼓は分離しているから、踊りは飛んだり跳ねたりの乱舞でダイナミックである。
ご覧のように私の腕ではボヤケテしまう。踊りには強靭な体力を必要とする。最後は少年に退治されるという筋なのだが、その前にダウンしてしまうししも出る始末であった。

まつりに参加した郷土芸能の数々は長年、地域住民間の繋がりによって、代々受継がれて来たものであるが、町村合併によって、大遠野市となっても、村単位、部落単位(集落)の伝統、誇りが脈々と受継がれているようだった。
批判もあろうが、遠野は地理的にも閉鎖された社会、しかも寒冷地、生きていくためにはお互い助け合わないと生きていけない村落共同体であったからではなかろうか。
近年、第一次産業の後継者問題、限界集落が拡大する状況にあって、まつりの継承も困難視される。しかし、集落の人々による農業の法人化、共同作業によって人的関係の密度が維持される限り、おまつりは今後も観られるのではないかと期待したい。まつりが終わると、刈入れ、そしてまた寒い冬がやって来る。
(9・23)

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