ノンジャンル No.057

投稿日 2006/03/30  厚生労働行政は いま
寄稿者 吉田一彦

 昨年の11月の初めに、大野瑛子さんも幹事の一人である在京の『盛岡一高の同級会』が丸の内のレストランで開かれた。その席上農林大臣や防衛庁長官をやった玉沢徳一郎が私に近づいてきて、彼に

「吉田、お前、天下りで今どこに行っているんだ」

と聞かれたが、私は、

「何で、お前にそんなことを言われる筋があるんだ」とむっとしてろくな返事をしなかった。

昔,旧労働省の婦人少年局にいるときにかの有名な『女子機会均等法』の根回しに彼のところに行ったことがあるが、社会党の田辺委員長と銀座でカラオケを歌っているほうが、よっぽど効果があった。
その玉沢に尋ねられた天下り先のある民間会社で、私の隣に座っている厚生省OBのKと私との某月某日の雑談的な会話である。

「Kさん、あなた、厚生省の清水康之局長をご存知ですね」

清水さんは、旧厚生省を卒業して、岩手県から参議院議員の選挙に立候補した。 対立候補は、岩手県庁の商工労働部長時代から私の旧知の高橋令則氏。私は清水さんに頼まれて、宮古地区の親戚縁者をフル動員して、応援してやった。その結果、宮古地区だけは、清水さんは高橋氏に負けなかった。

 私は、手伝った甲斐があった。
「吉田さん、清水さんには、あの方が官房の政策課長のときに遣えましたよ。気さくな方でねえ」

「彼は、私の中学、高校の一年後輩なんですよ。もっとも公務員試験は、私が『新橋のハリウッド大学?』で酒を飲んだり、女遊びばかりしていたので、逆転されて私の方が年次が一年後ですが」

「あの方は、入省した自治省から厚生省に移ってきたんでしたよね」

「そうですよ。あの当時の厚生省のキャリアーの採用は、一年次7〜8人でね。足りなかったんですよ」

「吉田さんも厚生省に入ればよかったのに」

「私も厚生省に来ないかって、強く誘われたんですが、福祉行政という輪郭が分からず、ぴんとこなくて、将来こんなに問題が集中して山積するとは予想もつかず、厚生省には行きませんでした。厚生省に行っていれば大問題ばっかりできっと面白かったでしょうね」

「惜しいことをしましたね。厚生省に入っていれば、キアリアーも少なく、もっと出世して今頃こんなところにはいなかったのにねえ」

「今、考えてみれば、私は、『赤い糸』に引っ張られて、旧労働省に入ったような気がします。同期は14〜15人いましたね。もし厚生省に入っていれば、問題を起こして、確か収賄罪で逮捕された岡光次官と同期でしたね。大いにチャンスがあったかもしれませんね」

 私は、軽い冗談を飛ばした。

「『赤い糸』って確か『命くれない』という演歌にも出てきましたけどー何ですか?」

「労働省に入って、何年かたってから盛岡で中学の同級会があって、幹事(山中さん)に卒業のときの文集を回覧してもらって見せてもらったんですよ。その中に何と書いてあったと思います

正確な表現は、覚えておりませんが(私は、国鉄のストを辞めさせるような仕事を将来はしたい)といった趣旨のことが書かれていたんですよ。

加賀野というところに学校があったんですが、岩手山から吹いてくる北風の冷たい校庭を飛び跳ねながら、その頃坊主頭で時代の匂いを嗅ぎ取ってそんなことを考えていたんですね。昭和29年、わが国も丁度右肩上がりの成長、発展にさしかかろうとしてましたから、まさか今のように厚生省が所管していた年金、健保、介護、高齢、少子化の諸問題が50年先に国家的な大きなイシューになるとは当時の坊主頭では考えられませんでしたからね」

「労働省に入って、吉田さんの希望はかないましたか」

「そうねえ。北海道庁の労政課長や本省の労政課長、(このポストは法務大臣をやった森山真弓さんが女で初めてついたポストですが)をやらしてもらいました。

地方と本省の労政をやらしてもらったのは、労働省でも多分私一人でしょう。それにそのものずばり、国鉄の労使問題と直接係わる、国鉄改革の時には新左翼の連中に命を狙われながら、国鉄清算事業団の雇用対策部長もやらせてもらいましたからねえ。

私は労働省に入ってからもずっと忘れてい中学の頃の心に描いた夢が神の赤い糸に手繰られて全部かないましたといわなければなりませんね。本当に今考えてみると不思議な気がします」

「それなら、ちっぽけな出世なんかよりも、ずっと良かったじゃないですか。吉田さんも満足でしょう。私がついつまらんことを言い出して、失礼しました」

会話はここで途切れた。

 私は、Kさんの言うように決して満足はしていなかった。自分のこれまでの人生がなんとなく物足りないような気がしてしょうがなかった。このままでは、宮古の墓にすんなり入れないのである。その結果が小説を書くという無謀な流浪の旅に出ることに結びついたのである。
  

 年取ると、聴力が衰え、視力も落ちるように、発想が狭隘になり、イメージも膨らまない。形式的な文章の誤りの見落しもひどくなる。ラブシーンや妖しいセックスの描写も古臭く、ビビットな色艶がない。第一、私は、30数年間法律の条文を書いたり、内閣法制局の厳しい緻密な法案の審査の仕事に携わってきたのだ。

(私が法規係長として直接ペンをなめた代表的な法律は、労働三法に次ぐ昭和48年の
『労働安全衛生法(Safety and Health Act)』です)。

 私の前歴を何にも知らない、小説教室の文芸評論家の先生には、

「隆宮さんの文章は、硬すぎます。それに正確で緻密すぎて、平板でだらだらして面白くない」

といつもしかられます。文章を柔らかくすること一つを取ってみても大変なのに、本気で何かの文学賞を取ろうとすれば、12,3歳の孫のような柔らかい脳みその人達と競争しなければならない。
ハンデキャップは相当のものである。
  
 しかし、私には、田口絢子さんのように、励ましてくださる方もおります。また、何よりも私に大きな勇気を与えてくださる方もいます。

その一人が、つい最近鬼籍に入られた岩手県(宮古市)出身の『本田竹広』さんというジャズピアニストです。

皆さんも既にご存知でしょうが、彼はクラリネットの『ナベサダ』と組んで一世を風靡したジャズピアニストの日本の第一人者の一人で、二度の脳梗塞にもめげず、死の直前まで現役ばりばりで、その地位をキープしてきた方です。

この人に比べれば、私のハンデなど物の数ではないと自分を奮い立たせて、今日もまた私は書き続けています。

 私の妹達も教わった宮古高校の音楽の先生だった彼のお父さんが作曲した

『宮古高校の校歌』

を竹広さんがジャズに編曲したものを、私は、是非一度聞いてみたいと思ってます。

TOPページへ


iwayama3 since2002.11
Presented by Ayako Taguchi