ノンジャンル No.061

投稿日 2006/04/17  第1話 鳥取砂丘の駱駝に乗れば・・・
寄稿者 吉田一彦

 前に『ノンジャンル』でふれた労働安全衛生法が私の手元を離れ国会に内閣提出法案として出されると(工場などで発生する労働災害による死者が当時6000人あったものが、この法律の成立によって現在では1600人程度までに減少したといわれている。 
 この法律と若き橋本龍太郎元総理とのかかわりで面白い話があるが、それはまたの機会に・・・)、私は、身重の妻と幼稚園の年少組み直前の長女と手乗り文鳥の『ピー子』の入った大きな鳥かごをぶら下げて、当時一本しかなかった特急寝台『出雲』に乗って鳥取に向かった。
 県庁への転勤である。
 官舎は、県庁から5分ばかり歩いた山に囲まれた街の中心部にあった。
 県庁に出ると早速仕事が待っていた。『産業と職業展』の知事決済である。
 早速、課員よりレクチャーを受ける。それによると、この企画は、当時大阪などに出ていた学卒を出来るだけ県内の企業に就職させるために、まず県内の主要な企業をよく知ってもらうというものであった。
 赴任して2、3日たって、私は知事の決済をもらいに知事室に入った。
 当時の知事は石破二朗氏。つい最近まで、防衛庁長官をしていた石破 茂氏の父君である。
 石破知事は、内務省の出身で元建設省の事務次官、知事辞任後は国会に出て、自冶大臣も勤めた大物である。
 知事は、眼光鋭く、部長達も怖がってあまり寄り付かない。
 長女の手を引いて毎朝幼稚園に送っていくのが私の役目であったが、知事公舎の前で公用車を待っている知事に会うといつも長女は知事の顔を見て怖がって泣き出すといった具合である。


「―――何だ、この文章は?君は大学を出たのか?俺は情けないよ。総務部長も、副知事も皆ろくに見ないで印を押して、こんな細かいところまでいちいち私が言わなければならないのか」
 知事は、二箇所の文章を問題にしていた。
 私にも直前まで法律の仕事をしていたというプライドがあるし、文章を見ても別におかしいとは思わないので、抵抗したが、どうしても印をおしてくれない。
 あまり抵抗しても、総務部長を呼んでしかったりしたのでは私も立つ瀬がなく、ややこしくなるので、やむを得ず引き下がった。  
 因みに時の総務部長は平林鴻三氏、自治省出身で後の鳥取県知事、郵政大臣である。
 内務省は、こうして最初に新人をガツンとしごき、鍛えたのである。
 
 このときのことを私は、旧労働省のOB会の雑誌に少し批判的なタッチで書いた。
 「―――私を鳥取県で最初に歓迎してくれたのは、石破知事の内務省流のシゴキであった・・・・・・」で始まる文章である。
 知事は、内務省時代に労働問題の部課長もしてたことがあるので、OBの中にはかっての部下もいた。
 雑誌の編集者もその一人であった。是非知事に、雑誌を渡すようにと私は託されて、秘書のところにそっとおいてきた。
 早速知事から呼び出しがあり、(君は俺の悪口を書いたな!)と言って散々しぼられた。


 鳥取県は、日本で一番人口の少ない県(当時の人口は58万人弱)で、知事はまるで村長さんみたいであった。
 ―――出張先まで直接知事から電話がかかってくる。電話を取った人も吃驚する。よその県ではとても考えられないことだ。
「―――君に一週間前に頼んでおいた案件だが、まだ出来ないのか!」
「いや、あの件は3,4日前にご報告しましたけど・・・・」
 電話がガチャンと切れた。
 
 こんなこともあった。県議会で知事に対する質問が出て、私は、知事答弁メモを作成し、知事がちょっとトイレか何かで席をはずした間に知事室の机の上においておいた。
 知事本人から電話
「何をぐずぐずしているんだ。答弁メモはまだ出来ないのか―――」
「さっき机の上においてきましたけど・・・・」
「机の上にないから君に電話してるんじゃないか!」
「―――そんなはずはありません」
「―――俺は鳥取県の知事だ。俺がないと言えばないんだ!」
「――――ちょっとお待ち下さい。今参りますから・・・」
 電話を切って知事室に駆け込んでいった。
 知事は、怖い顔を益々怒らせて鬼のよう形相で腕組みしてソファに座っていた。
 私は、(失礼します)と言って先ほど自分が置いていった書類の辺りを手当たり次第にかき混ぜて探した。
 探していたメモが出てきた。
「・・・・ありました。これです!」
知事は、ばつの悪い顔をした。
「そうか、あったか・・・」
 この頃の私は、知事に負けないぐらい気が強かった。
 これがかえって何十年かあとに私の出世の妨げになるのである。

 知事は、内務省系の出身者には、暖かい関心を寄せていた。
 労働省の元事務次官のS氏が参議院選に立候補するときに、私のところに挨拶に見えたので、知事室に案内すると、知事は、慈愛溢れる言葉でS氏を激励していた。
 S氏が帰ったあとすぐに知事から電話があった。
「―――S君は大丈夫勝つだろうなあ。ところで彼の奥さんは、誰の娘さんだ?」
「????」
 私が返事に窮していると
「おい!そのぐらいは勉強しておけよ。彼の奥さんは元内務次官のK氏の娘さんではないかと思うんだが、確かめておいてくれ―――」
 こうした按配である。早速本省に電話して確かめてみると、知事の言うとおりであった。
 
『産業と職業展』は、参加を希望する企業から自社をPRする展示物を出展させ、それを県がチャーターしたバスで会場まで運んだ学生たちに見てもらい、県内企業を見直してもらって、学卒の県内就職率の向上を図ろうという事業である。
 鳥取、倉吉、米子の三箇所で、大きな体育館を借りて実施された。何しろ予算がないので、ガードマンも雇えず、展示物(電気自動車などもあった)を守るために、私も担当の職員と一緒に開催期間中は、体育館に寝どまりした。
 夜中に何度か起きて懐中電灯と木刀を持って真っ暗闇の館内を巡回した。
 今でもそのときのことが忘れられず、(―――私にとっては、一生思い出に残る仕事でした・・・)と言って、もう80歳を過ぎた当時の職員であった方がいまだに時期になると鳥取名産の『二十世紀梨』、『大栄西瓜』、『花御所柿』を送ってきて、我が家の季節感を鳥取県一色に彩ってくれている。 

 さて、この事業の実施の成果も手伝って、翌年の鳥取県の人口は、微増、中でも社会増が見られた。
 この頃の鳥取県の人口は、日本で一番少なく、58万人弱。石破知事は、人口が少し増えて大変喜ばれ、私も呼ばれて初めて知事に褒められた。
 このドキュメントを書くために昨日調べてみたら、この事業を実施した翌年、昭和48年から人口は、傾向としては増え続けいまや61万人になっていた。
 県全体で、合併後の盛岡の人口30万人の倍程度である。
 私も始めて人口が増えている事実を知って、嬉しくなった。
 
 ―――石破知事からは、たったの一年間だったけど色んなことを教えてもらった。
 ――本省に対する陳情は、知事でも係長からすること(―――たいていの知事は、少なくとも局長以上でなければ、面通がつぶれるといってやらない。石破知事は、役所の下が奮い立つような役人心理を心得ているのです!)。
 
 ――個人に係わる祝電を打つときは、自宅に打て!(役所に打つとあまり見ず、印象が薄くなる―――)。
 
 ――酒は、コップ酒に限る(コップ酒だと量が分かり、身体を壊さない―――)。
 私は、三番目の教えは、それ以来酒を飲むときにはずっと守っている(―――ところがこれがもとで新潟では先輩に叱かられる)。
 
 鳥取県は、所帯も小さく、貧乏県で、本省から出張してくる役人に対する接待では金がなくて困った。
 そこで考えたのは、次の一手である。
 ・・・・私より年上の謹厳実直を絵に描いたような課長補佐がおもむろにズボンの中に手を入れて、真新しい『越中褌』をはずし、紐を両手に持って、片足を一歩前に出して褌の端を足で押さえ、艪をこぐように手を前後に動かす。
 ・・・・次に、私が立ち上がって、課長補佐の動きにあわせ、「何の因果で貝殻こぎなろうた・・・」と美声を張り上げ、唸って板屋貝(ホタテ)を採取するときの作業歌といわれた鳥取県の代表的な民謡『貝殻ぶし』を歌うのである。
 これにはたいていの本省の連中も腹を抱えて笑い転げた(この手は、お隣の島根県との交流のソフトボール大会のあとの飲み会でも使った。
 松江の宍道湖のほとりの、ホテルで、こちらは私と補佐の『貝殻ぶし』、向こうは本場の『ドジョウすくい』。天下の『ドジョウすくい』にはどうしてもかなわない。
 
 ついでに『宍道湖のしじみ』につい―――、東京で一番値段の高いこのしじみは、70年以上前に私の宮古の叔父さんが今の水産大学を卒業し、島根県庁に就職して、宍道湖でしじみの養殖に取り組んでいた―――なんの因果でしょうか???)

 鳥取県の名産は、なんと言っても『松葉ガニ』である。
 宮古の毛ガニしかみたことのない私がこのガニにお目にかかったのは、漁師をしている職員の家から2杯いただいたのが最初である。
 なんと王者のような立派な風格をしたカニでしょう。
 食べてみると脂が乗っていて・・・非常に美味であった。この当時でさえ1杯が2万円近くもした。
 
 しかし、私の一番の思い出に残っているのは、松葉ガニの基地である『賀路』の港までタクシーを飛ばし、岸壁で小あじ(小田原の名産『小あじの押しずし』のあじのサイズ)を釣り上げ、手ですぐに三枚におろして、持参の醤油をつけて、つまみにしてワンカップのお酒を飲んだことである。
 すべてのことを忘れた至福のときです。
 
 この地方は、日本そばのレベルも高い。特に、『出雲大社』の近くの『荒木屋』、ここの『割り子そば』は、天下一品。
 当時グルメ番組もあまりなかった時代にNHKも取り上げたぐらいである。
 この店を訪れたのは、鳥取で次女が生まれて、『出雲大社』にお宮参りをした一回きりであるが、今でも月に1回、神田にある岩手の北日本銀行の東京支店に記帳に行った帰りには、必ず神保町の『出雲そば』によって『割り子』を食べる。
若いときは7杯も食べられたのに、今は3杯しか食べられない。―――実に情けない。
 
 鳥取県の西部、日本有数の漁港、境港に行くと私の部下の所長が言った。
「―――境港にはねえ、司葉子クラスの美人はうじょうじょしてますから・・・」
 司葉子は、境港の名家の出身。
(―――私は、きょろきょろ一生懸命見たけど所長の言うような司葉子クラスの美人は残念ながら一人も見ませんでした。
日本の美人の産地は、――郷里の岩手県を別とすれば――日本海側の1県置きの県だというじゃないですか。
秋田県、新潟県・・・と数えてくると、島根県じゃないですか。
もっとも『出雲美人』といわれる島根県も6頭身の美人でね。
あまり私の好みではない。
―――それよりも出雲の言葉は何で東北から遠く離れているのに東北と同じ『ずうずう弁』なんでしょうかねえ。北前船の影響でしょうか。不思議ですね。
 ―――ついでに、岩手でも宮古だけがアクセントは違うが、京都と同じ有り難うのことを『おおきに』という。これまた不思議ですね)


 夏は、私が住んでいる官舎の周りには、蛍が一杯出た。
 夜、お酒を飲んで上機嫌で歩いて家に帰ってくると蛍が顔に当たって心地良かった。
 官舎の前の小さな小川では近所の子供たちも入れて、ザリガニ取りをして遊んだ。
 ―――きゃっきゃあ騒ぐ子供たちの笑顔が浮かんでくる。
 

 祭は、雨ごいの『因幡の傘踊』から始まった、傘を持って踊る『鳥取のしゃんしゃん祭り』。3500人が参加するそうであるが、私の頃は第一回目ぐらいで規模はそれほど大きくはなかった。
―――『盛岡さんさ踊り』と比べてどんなものであろうか。

 私は、本省に戻ることになった。
 ここからが石破知事の真骨頂である。まず、地元出身の商工労働部長を本省に派遣して、私の帰るポストを探らせた。
 まあそのポストならいいだろうと知事も私を本省に帰そうということになった。
 ところがである。新潟出身の田中角栄氏が総理大臣になって、労働省の方針が変わり、私は新潟県庁に行くことになった。
この方針の変更を聞いて、石破知事は最初はひどく激怒した。しかし、もともと田中角栄氏とは『日本列島改造論』をめぐっ
て懇意の中だった知事は、最後は労働省に説得されて了承した。
 
 
私が鳥取県を去る日、鳥取駅は、見送りの人で一杯であった。その中には、鳥取労働基準局の賃金課長をしていた駆け出しの
松原亘子氏もいた。
 その当時は、同僚。一緒にお酒を飲んだり、遊んだり・・・私のほうが一年先輩で威張っていた。
 しかし、数十年後、『女子機会均等法』によって、彼女は日本で女で初めての事務次官になり、口の利けない遠い存在の人になるのである。
 ―――その頃は、まだ私も溌剌とし、意気揚々としていた。
 万歳三唱に送られて、少し感傷的になりながら、手乗り文鳥の『ピー子』に慰められて、鳥取県を去った・・・・。
(第一話 完)

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