ノンジャンル No.062

投稿日 2006/04/21  第2話  雪が消えれば越路の春は
寄稿者 吉田一彦

 私は、新潟県で仕事をするのは、鳥取を去った昭和48年9月からと、それから20年たった平成2年4月からの二回である。いずれも就任期間は、一年程度。
 二つの期間の時代の差は、相当大きく、二回目に行ったときには、新潟はすっかり変わっていた。
 
 最初の48年は、仕事場は県庁であった。官舎は、市内の高級住宅街といわれていた『水道町』にあった。この官舎の界隈が問題なのである。
 実は、この官舎から50メートル離れたところにある日銀の官舎に3年後に住んでいたのが北朝鮮に拉致された『横田めぐみ』さんである。
 勿論それが分かったのは、拉致問題が表に出てからである。
 この一角には、知事公舎、県警本部長の官舎、日銀の支店長の公舎、民間企業の支店長の社宅などが集中していた。
 すぐ後ろが五木(寛之、ひろし)のどす黒い『ふりむけば日本海』・・・細かい潅木の公園があって、新潟出身の作家坂口安吾の碑などが立っていた。
 隣が護国神社、夕方から人どうりもまばらとなり、言われて見れば相当に物騒であった。
 女房は、生まれたばかりの次女が夜具合が悪くなると、背中におぶって、めぐみさんが誘拐された近辺の暗い道を歩いて、病院に駆けつけていた。
(・・・・・あの頃は、本当に夢中だったんですよ。3年後だったらうちの暁(長女)が誘拐されていたかもしれないね―――ああ、怖い!)
 女房殿の感想である。
  
 
 さて、私が赴任した頃は、田中角栄氏の総理大臣就任で、新潟は熱気に溢れていた。
 何もかもが角栄氏・・・・私も総理の後援団体、『越山会』からいただいた――田中角栄――と大きく染めぬかれた紺の風呂敷を持って、よく霞が関の中央官庁に陳情に出かけた。
 役人の前でその風呂敷をぱっと広げると、たいていの役人はびびった。
 
 当時我々の元締め、労働省の職業安定局には広報誌があって、県別の特集号が企画され、次が新潟県の番になっていた。
 各県は、自分の県の特徴を出そうと競っていた。
(―――よし、新潟県の特集号では、私が『故郷と職安行政』について田中総理にインタビューした記事をトップに持ってこよう。―――皆きっと吃驚するだろうな。角さんと並んだ写真を撮るのも悪くないなあ。-―――是非家宝にしょう)
 私は、頭の中で構想を膨らませていた。
 内密のルートを通じて田中角栄氏の地元の秘書に頼み、OKを取って、本省にお伺いを立てた。
 担当課長まで了承を得て喜んでいたところ、その後の本省の人事異動により新しく就任した課長は、ノーと言い出した。
 私が本省まで行って掛け合っても、今度の課長は、構想の破天荒さに驚愕して、(頼むからやめてくれよ・・・)の一点張りである。
 責任者にそこまで言われれば、私も、断念せざるを得なかった。
 OKを出し、面白がって私に盛んにけしかけた課長は、その後役所を辞め衆議院議員の選挙に出馬して落選、どこかへ消えていった。ダメを出した課長は、最後は事務次官まで上り詰めた。
 課長時代の際立った判断の差が出ていて面白い。
  
 田中総理は、その後ロッキード事件で逮捕されるのだが、私もその頃からは例の風呂敷は使わないことにし、タンスの奥深くしまった。

 私が一番力を入れた仕事は、心身障害者の問題である。
 あるとき、関係の会議で、鼻っぱしの強い出先の課長が(今年の身障者の雇用促進の大会の講演者として一番いいのは『ねむの木学園』の宮城まり子だが、彼女ほどの大物だと新潟まで呼んでくるのは、吉田課長でもとても無理だろうな・・・・)と冷やかし半分に発言した。
 その当時、宮城まり子は、身障問題では、一世を風靡し、予算のない役所で呼ぶのは100パーセント無理だろうと、充分見越した上での意地悪い発言であった。
 この場では、私は聞き流したが、その発言にはこだわりを持っていた。
(―――このやろう。人を馬鹿にしやがって・・・・)
 
 自分の部屋に戻ると机の電話を取って、盛岡時代からの友人である東京の現朝日テレビの山本 肇さん(付属中2級後輩、山本美枝子さんの弟さん、一昨年鬼籍に入られたが、彼は後年、同テレビの報道局長に栄進し、現在の10チャンネルの日曜日の超人気番組田原総一朗の『サンデープロジェクト (通称サンプロ)』を立ち上げた一人でもある。 
 亡くなる直前、このときの電話以来、30数年ぶりにお母様の狛江のマンションで二度ほど会い、彼の運転で二子玉川園の駅 まで送ってもらった。
 私が車から降りる別れ際に、『一彦さん、そのうち私も誘ってください。ゆっくり飲みましょうよ』私も心から楽しみにしていたが、これが私との最後の言葉であった・・・・合掌)のダイヤルを回した。
 肇(ただす)さんに宮城まり子の紹介をお願いしたのである。彼は快く引き受けてくれ、2,3日後にOKの返事を取り付けてくれた。
 私は、肇さんの指示どうり、担当の職員を一人連れて、新宿の紀伊国屋の中にあるホールに舞台稽古中の宮城まり子を訪ねた。
 
 休憩時間に会ってくれた彼女は、開口一番
「ああーら、宝塚の★★先生、お久しぶりねえ・・・」
 私は、宝塚(宝塚といえば、知人のお嬢さん、月組のベル薔薇のオスカル役のスター大空祐飛がいる。彼女のことはいつかまた)のダンスの先生に間違われたのである。
 本当にそう思ったのか、ジョークなのか分からない。何しろ宮城まり子さんは、特異な感覚をもった人だから・・・・・
 (一方私の方も、芸能人の扱いには充分慣れていた。前任の仕事の関係で、ある方の紹介で、新橋の『ナベプロ』にはよく出入りしていた。
 私が役所のイベントに使ったタレントは、女性では、大スターになる前の『木の実ナナ』、『梓みちよ』、『加藤登紀子』。
 少女の木の実ナナは、埼玉県の熊谷の体育館の楽屋で、今のようなじゃらじゃら声ではなく、透き通ったかわいい声で(私着替えますからちょっと出ていていただけませんか)と恥ずかしそうに私に言っていた。
 それから吉永小百合。彼女の姉が、都庁にいる私の知人の奥さんだったので、その縁で、彼女の実家に押しかけ、お父さんと出演交渉をした。
 彼女の顔は、明るく、ハッピーすぎて私の好みではなかったが、近頃は、人生の荒波にだいぶもまれて、なんともいえない影が差し、丁度いい塩梅になり、私の好みに近づいた。
 最後に、あと一人だけ。新珠三千代。彼女には、この新潟時代に、新潟から女中さんを私が世話した。電話で私が(新珠三千代さんですか)というと、彼女は、例の清楚でクールな声で(それは芸名よ。本名で言って頂戴・・・)といわれ、私はすぐに(―――戸田馨子さん)と言い換えたことを今でも覚えている。
 ごく最近知ったことだが、彼女は「仕事と私生活をはっきり区別する人で、プライベートをまったく明かさない人」というのがある新聞の評である。
 (上京されたら一度お家においでなさいよ―――)と誘われたが、私はびびって訪ねなかった。
 残念なことをしたと思っている。  合掌。)
   
 さて、話は随分横道にそれたが、宮城まり子。肇さんの顔とイベントの開催趣旨を強調した私の説明で、ノーギャラに近い出演料で彼女から無事OKをもらった。
 
 
 大会の当日、私は新潟駅に迎えに出た。特異な感覚の人だから本当に来てくれるのか内心心配だったが、特急『とき』のグリーン車から奇抜なファッションの彼女が笑顔で降りてきたときには、私はほっとした。
 車中で偶然であったという超有名な文化人、新宿の紀伊国屋書店の田辺茂一社長と一緒であった(この方との面白い話があるが、ここではカット)。
 
 大会は、盛況。宮城まり子の講演は、『ねむの木学園』の体験からくる地についたもので、すこぶる好評。彼女は、講演の最後にアカペラで、かっての彼女のヒットソング、ご存知―――『ガード下の靴磨き』-―――の歌まで歌ってくれた。
 聴衆は、皆感動していた。
 夜は、敷地2000坪、300年の歴史のある料亭『行形亭(いきなりや)』で宮城さんを招待し、会食をした。
 当日の料理。おつくりは、南蛮えび、焼き物は、のどぐろ(この地方独特の喉が黒いかさごに似た魚)の塩焼き、汁ものは、ご存知、のっぺ汁であったと記憶している。
 料理を食べながらの彼女の話は、とびっきり面白かった。
 
 翌日は、日曜日。宮城さんからの突然の申し出により私が県の代表的な身障施設に案内し、身障者たちと歓談してもらった。
 私の方からは、せめて安いギャラの埋め合わせにと、『ねむの木学園』で使って下さいといってダンボール箱一杯のスプーン(身障問題に熱心なわが国のスプーンの代表的な産地、燕、三條の社長さん達から寄付していただいたもの)を差し上げた。

 新潟県は、青森や秋田ほどではないが、当時は出稼ぎ県の一つであった。出稼ぎをどうして減らすか、安全に出稼ぎさせるかが私の仕事であった。
 当時は、今と違って新潟から東京までは、特急『とき』で4時間もかかった。
 出稼ぎ支援団体の突き上げにより、家族が出稼ぎ地を訪問し出稼ぎ者を慰労する『出稼ぎ訪問バス』の制度が創設された。
 県がバスをチャーターし、東京での宿泊場所を決め、出稼ぎ家族に希望者を募ったところ手を上げた者が沢山出て、バスの台数を想定していたよりも増やした。
 
 いよいよその当日、漬物や笹ダンゴや餅や赤飯などのふるさとの食べ物を一杯包んだ唐草の風呂敷包みを背負って、紅、白粉をつけて飛び切りおめかしをして、吉 幾三の『津軽平野』に出てくるように「やけにそわそわした」かあちゃん達が興奮しながらバスに乗りこんだ。
 NHKもテレビでこのシーンを全国に流したが、マスコミの連中はこのバスを陰では『セックスバス』と命名し、私を盛んに冷やかした。
  
 この頃、新潟県は、東京電力の柏崎の原子力発電所の安全審査で大きく揺れていた。担当は、私の所属している商工労働部で、労働省から出向してきている先輩の加藤 孝部長は、連日県議会でもみくちゃになっていた(県議会の議場が反対勢力に占拠されたこともあった)。
 加藤部長の趣味は、海釣りであった。私は、彼の気を紛らわすためによく釣りに出かけた。信濃川河口の三角波を乗り越え、海に出て、佐渡島の沖まで行って一日中釣りを楽しんだ。 
 部長は、私以上に釣りキチで、後年この釣りが命取りになってご存知、リクルート事件で逮捕され、労働事務次官の職を辞することとなる。
 (この事件で世が騒然としていた頃、在京の附中会に私が出席したら、「おい、吉田君。リクルート事件は大丈夫だったか?」と誰かに聞かれ、「大丈夫だ」と答えたら、誰かが「・・・・吉田君はそれほど大物でないからなあ」と言って笑っていたが、その頃私は、労政局長であった加藤さんに再び仕え、千葉方面によく釣に一緒に出かけていた。さて、そのときにリクルートの幹部も同行していたか? 答えはノーコメントである。)

新潟には、宮城さんを招待した『行形亭』と並んで『鍋茶屋』という日本でも有数の料亭がある。
 わが国の総理大臣の最長不倒記録を持つS氏が大蔵大臣のとき『鍋茶屋』にきて、芸者さんの踊りが始まると、自分の席にもどらなければならないというルールがあるにもかかわらず、席に戻らず無粋だという話が新潟の花柳界には流れていた。
 私は、それだけはきちんと守るために、三味線が鳴り出し、しなのよい黒紋付に菅笠の芸者さんたちの男踊り、『新潟おけさ』、『相川音頭』、『新津松坂』、『両津甚句』などが始まると、すぐに自席に戻るようにした。
 しかし、酒は、鳥取の石破知事から教わったように、どこに行っても『コップ酒』で通した。
 もっとも、かって新潟の部長で、今は本省の局長をしている先輩が出張できて『鍋茶屋』で飲んだときに(吉田、お前、品がないから『鍋茶屋』では、コップ酒はやめろ)とたしなめられたが、その後も私はコップ酒はやめなかった。
 
 当時新潟の花町、古町には芸者さんが100人ぐらいいた。最盛期には、300人もいたそうである。一人、一人の顔写真の載った100ページぐらいの本も売られていた。
「今晩は、どの子を呼びましょうか?」
 よく、主催の宴会があると課長補佐が本を持って私に聞きにきた。
「―――この子にしよう」
 私が写真を開いてにっこりして名指しすると
「・・・いや、課長さん、いつも同じ人では、誤解されるといけませんから・・・・他の人とかえましょう」
 と言ってなかなか私の思う人を指名させてくれないのである。
 古町の芸者さんは、一流どころは年配の人(当時80歳の現役の芸者さんもいた)が多く、とてもプライドが高くて、県庁で言えば部長以上でなければ、口を利いてくれないのである。
課長ぐらいでは、ぜんぜん鼻も引っ掛けてくれないのである。そこを何とか工夫し、かいくぐって私はやっと口をきいてもらえるようになった。

 さて、関連して美人について。ふるさと岩手を別にすれば、新潟は、秋田とともに美人の誉れが高い。
 確か、田中総理がソ連に行ったときに(新潟と秋田とどちらが美人か?)と聞かれ、さすがに総理、どちらとも答えられず(新潟は中年に美人が多い)と答えたと何かの新聞で読んだことがある。
 私も同感である。
 盛岡から秋田に向かう列車に角館辺りから乗車する女学生の中にはあっと驚くような顔立ちの美人を見ることがある。
 しかし、新潟ではそんな光景には遭遇したことはないが、新潟近郊の岩室だとか弥彦生まれの少女がいったん古町の水で磨かれると、40歳前後になって後光のさすような粋な美人に変身するのである。
 

 新潟には、『佐渡おけさ』、『新潟おけさ』、『選鉱場おけさ』、『寺泊おけさ』などおけさが100以上あるといわれ、『仇し仇し仇波・・・・』の『新潟おけさ』が転勤節といわれていた。
 この『新潟おけさ』が一番素人には難しい。それに古町のお座敷で、芸者さんの三味線がなければ、このおけさは引き立たない。
 このため宴席ではよく私は、『十日町小唄』を歌った。
 この第2話の標題もその『十日町小唄』の1節である。
 
 結局、私も芸者さんに教わりながら『新潟おけさ』を必死になって勉強したが、完全にマスターしないうちに1年ちょっとで新潟を去ることになった。
 
 役人が新潟を離れるときには、当時は芸者さんが何人駅に見送りにきたかによって、その人が在任中にどのぐらいの仕事をし、善政を施したかが分かるといわれていた。
 これは部長級以上の話であって、課長には適用されない。課長など問題にされないのである。
 そうはいっても、私のときは、芸者さんは見送りには??どうだろう。

 
 同じグリーン車に乗っていた新潟出身の国会議員が私の見送りの人が多いのに驚いて、(誰の見送りだ―――)といっているのが私の耳に聞こえた。
 私は、先生に顔を見られないように急いでシートに身を沈めた。

 20年の歳月が流れ、私が二度目に単身赴任で新潟に行ったときには、世の中もすっかり変わり、行政も新潟も昔の面影はなかった。
 『鍋茶屋』などの高級料亭への出入りは勿論のこと、芸者さんの顔を拝むことなどは出来ない時代になっていた。
 しかし、自治省出身の金子新潟県知事は、労働省から局長が出張してくると、『鍋茶屋』などへ私も呼んでくれた。
 しかし、彼は、私が一年後に新潟を離任してから『佐川急便事件』で、政治資金規正法違反で逮捕され、知事の地位を追われている。
 新潟県知事の当時の公用車は、ベンツのSクラス、彼はそれに乗って颯爽としていた。
 彼の失職は、私は新聞で知ったが、その後あるとき東京の国電の中で彼と偶然出くわした。
 隣の席が開いていたので、座り、挨拶を交わして、(東京にお住まいですか?)と聞くと、
(いや、まだ新潟に住んでます。裁判があるので出てきたんですよ)弱々しく答えていたが、なんとも同情を禁じえない一瞬であった。
(私は、この人と一度間違われたことがある。ある懇親会で、知事が帰った後、名札を立てたまま、知事の席に移って酒を飲んでいると、知事さん、知事さんと言って10人ぐらいの人達が酒を注ぎに来てくれた。
 いまさら私は、知事ではないといえず黙って杯を受けていたが、実に壮快であった。金子さんは1億円ぐらいのお金を佐川急便からもらって、届けずに逮捕されて実にもったいないことをしたもんだと私は思った)
 

 さて、今度の労働省の出先機関、労働基準局ではこれといった難しい仕事はなかった。
 ここに来る前の3年間は、国鉄清算事業団に出向して新左翼の連中に命を狙われながら国鉄改革の仕事をやっていたので、新潟でも私の身柄は、県警の警備対象になって、官舎は警察から絶えず監視されていた。
 
 仕事で一番注意しなければならないのは、増設中の柏崎の東京電力の原子力発電所のことであった。ここは、今では世界最大級の原子力発電所である。
 世論が原発問題には非常に敏感であり、一つ間違うと大変なことになるのである。
 某日、若い職員が私の部屋に飛び込んできた。
「―――柏崎の原発で事故が発生しました!」
「――どんな事故だ」
 私も多少緊張して職員に質問した。
「・・・墜落です!」
「―――何だ、建設中の事故か。原発本体の事故でなくてよかった―――」
 私は、安心してふと職員の顔のあたりを見ると、彼は、白いワイシャツに似たような色のネクタイを2本ぶら下げていた。
「―――おい、何でネクタイを2本も締めているんだ・・・」
 私が言うと彼は初めてそれに気がつき、顔を赤らめて
「急いだもんですから・・・つい・・・」
 と言ってネクタイを一本はずした。
 よほど、原発の事故と聞いて吃驚してあわてたのだろう。


 最後に、宮仕いの暇に任せて経験した日常のこまごまとしたこと。
 ―――まずお酒のことについて。
 新潟は、酒どころである。私が新潟にいた頃は、『越の寒梅』、『雪中梅』、『八海山』がとりわけ有名で、人気があった。
 『越の寒梅』にもピンからキリまであるが、一升瓶の空瓶でも福岡の中洲辺りでは、話によると2万円ぐらいしていたという。  
 当時は『越の寒梅』は幻の名酒といわれ、色んなところから酒屋でない我々にも注文があった。
 
 しかし、その上の幻の酒があるという。
 新潟には、月に一回、知事の下に各省の出先機関の長が集まる会議があるが、そこでの話。
 日銀の新潟支店長の平山征夫氏(柏崎出身、金子知事の失脚のあと、新潟県知事になる)がこんなことを言い出した。
(知事さん、講談社に『夏子の酒』という漫画の本があるんですが、その本にたびたび出てくる『亀の尾』という米で作った『亀の翁』という酒は、本当にうまいですよ。あれこそ本当の新潟の幻の名酒ですよ―――)
 私も聞いたこともない酒だ。早速あらゆるルートを総動員して探したが、手に入らなかった。私はまだ一度も呑んだことがない。

―――着物について
 新潟には、素晴らしい着物がある。十日町、六日町、小千谷、塩沢などが産地として有名だが、伝統的な織物として、
 『塩沢紬』、『本塩沢』、『夏塩沢』、『越後上布』、『小千谷ちぢみ』、『明石ちぢみ』、『十日町ちぢみ』などがある。
 私など見学に行ってこれらの着物を見ると、女房にせめて『越後上布』の一枚も買ってやりたいといつも思うが、値段が400万―500万では下っ端役人の身では、到底手が出ない。

―――山菜取りときのこ狩り
 春は山菜取り、秋はきのこ狩りによく行った。
 山菜取りは山形県境の山、きのこ狩りは福島県境の山に人事交流で営林署から来た職員に先導されて行った。
 どちらもさすがにプロの案内だけに沢山取れた。
 山菜は、ふき、わらび、ぜんまい、うるい、みず、かたくり、みょうが、しどけ、ほんななどである(しかし、山菜の美味さは、到底秋田にはかなわない)。
 きのこは、なめこ、アミタケ、ほんしめじなどであり、いつも大きなナイロンの袋で二つぐらい取れた。
 持参の大きな鍋で煮る豚肉や取立てのきのこの沢山入ったきのこ汁も山小屋で皆で車座になってふうふう言いながら食べると下界では味わえないほど美味で、本当にハッピーである。
 しかし、それぞれの収穫物の保存のための作業は、実に大変である。
 例えばアミタケ
 細かい石づきを一本づつはさみで丁寧に切り、これを何回にも分けて鍋で煮て、樽に入れ冷めるのを待って、塩を振り掛けるのである。
 大きな鍋がないので、繰り返し繰り返し何回も煮て、とうとう徹夜になって朝までかかり、終いにはきのこの匂いが鼻について気分が悪くなり、赤い目をしてふらふらになって役所に出たことが何度もあった。
 それでも頑張ってやれば、普通の家庭で3年も食べられる程度の保存ができるのである。

―――もっと細かい話。
 新作のなすの漬物
新潟では、取れるなすの種類も多い。
十全なすという有名な丸なすがあるが、わざわざ市場に行って仕入れた取立ての十全なすを、美人の湯で名高い、日本海沿岸きってのプレイスポットとして週刊誌で名高い『月岡温泉』の赤土に秘伝の調味料(ある板さんからいただいた味の素に似たようなもの。いろいろ調べてみたが、中身は不明)を混ぜて、水で溶かし泥状にしたものにつけると、鮮やかな紫の色が出て、皮も柔らかく、いまだかって口にしたことがないような美味な漬物が出来る。
 いや・・・皆さんにも一度食べさせてみたかったなあ。
 私も、役人をきっぱりと辞めて、これで漬物屋のおやじになりたいと思ったぐらいである。

 最後に枝豆と紫の食用菊『かきのもと』について
 私は、いろいろ食べてみたが、日本で一番うまい枝豆は、新潟市近郊の黒崎の『茶豆』だと思っている(枝豆は、もともとあまり好きではないが、この枝豆だけは食べている)。
 今でも枝豆の季節になると、新宿のデパートを通じてこれを取り寄せ、必ず食べる。
 さて、茹でた枝豆に何センチ上から塩を振り掛けると一番うまいか?これが問題である。
 単身赴任中暇に任せて何回も実験してみたが、結論は残念ながら出なかった。
(新潟名産の柿の種についてもピーナッとどんな割合で混ぜると一番うまいか、いろいろ実験してみたが、結論はでなかった)

 紫の食用菊『かきのもと』も新潟の名産である。山形にも『もってのほか』という同様の紫の食用菊があるが、新潟のほうの菊が香りが強く、しゃきしゃき感があって私にはうまいように思われれる。
 茹でた菊に生わさびを混ぜたもの(芸者さん聞いたところでは、南高の梅干、おかか、生わさびと混ぜたものがうまいという。私は梅干が苦手なので、ダメ)をご飯の友にすると非常に美味である。
 あまりに美味いので、宮古の叔父さんに苗を送り育ててもらったが、風土と合わないのかうまく育たなかった。

(以上のような細々とした味気ない単身赴任の生活の体験の集積から、後刻、岩手県庁の『銀河系いわて大使』に任命されたときに、岩手の農産物、海産物などの特産品について意見とレポートを求められ、ついストレートに率直な意見を開陳し、郷里の発展に少しでも貢献したいと願ったが、冷酷な役人どもの仕打ちにあって5年で首を切られた。甚だ残念、無念なり)


 時代は、大きく展開した。特に公務員に対する世間の風当たりはことのほか厳しい。
 20年前の新潟駅でのしっとりした艶っぽい離任の光景は、前述したように今でも記憶に鮮明に残っている。
 だが、それよりもずっと時間の新しい『上越新幹線とき』の新潟駅での別れのシーンは、全然何も覚えていない。
 如何に、味もそっけもない別れだったのか・・・・・・
(第二話 完)

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