ノンジャンル No.063

投稿日 2006/04/22  第3話 北の国へ、ふたたび
寄稿者 吉田一彦

―岩館先生とY氏のぎょろ目―
 

 昭和53年4月、しょっぱい川(地元の人々は津軽海峡のことをこう言う)をひと飛び、千歳空港に降り立った。
 札幌の『赤レンガ』を見るのは、昭和29年の附中の修学旅行以来である。
 確かあの時は、地元の付属の先生から説明を受けながら、私はこの鉄の扉に手をかけて、『附中』の記章のついた学生帽を被った幼い頭で何を考えていただろうか。いつの日かまた、ここに立ちたいと願っていただろうか・・・思えば不思議なめぐり合わせである。

北海道労働部職業対策課(国家公務員)。これが私が所属す課である。
 この課は、現下の困難な諸問題に対処するために、一年前に出来たばかりの全国でも珍しい課で、文字どうり北海道の難しい労働問題がぎっしりとつまっていた。
 季節労働者、炭鉱、200カイリ、造船、失対、雇用開発どれ一つとっても難しい問題ばかりである。
 さらに私は、労働省から一つの蜜命を与えられていた。
 蜜命、それは道庁の吏員(地方公務員)のポストを再度確保すること。
 北海道庁には、古くは、出納長、部長、のポストに労働省から先輩たちが来ており、最近では組合の天下りの反対闘争も強くなって、課長ポストに格下げされて何代か続いて先輩たちが出向してきていた。
 昨年まで私と同期の人が来ていたが、なかなか力量が発揮できず、道庁側の評価ももう一つで、次は労働省からは人はとらないということになった。
 (まあ、そんなことは言わんで、吉田と言う職員を国家公務員のポスト(知事の人事権が及ばない、いわゆる地方事務官制度)で送るから人物、力量をよく見てもらってよかったら吏員の課長で使ってみてはくれませんか)
 と道庁側と一応の約束が出来ていた。
 そうは言っても当時は、自冶労、全道庁の天下り反対闘争は強烈で、全省庁からの天下りはトータルで★人という協定が出来ていた。

 職業対策課の仕事は、相当にきつかった。とりわけ道議会対策。どのようにして議会をのりきるかが、すべての仕事に優先していた。
 当時は、北海道には、いいことは何ひとつなく、炭鉱の閉山が続き、200カイリ問題で締め出された漁船、船員、そして大きな影響を受ける水産加工業者。
 さらに、造船業の不況に伴う函館、室蘭の造船業者の受注減も手伝って有効求人倍率も全国の平均よりもかなり低下していた。
 大きな構造問題、積雪寒冷地帯特有の問題もあった。それは冬になると建設業などでは仕事が出来ず、道内から30万人の失業者が毎年出るという季節労働の問題であった。
 このため道庁では1番か、2番目かに議会の質問の多いか課であった。
 議会をどうこなすかは、各部長のもっとも力を入れるところであり、彼らが勤務評価される一大ポイントであった。
 だから議会が終わると部長たちは精力を使い果たして抜け殻のようになった。
 議会自身も私が居た当時は大変面倒な議会で、年間の開催日も日本で一番長かった。

 本会議での具体的な質問が出ると、担当課が知事の答弁メモを作成し、次長、部長が手を入れて、それから前の晩の深夜に、御前会議での審査と勉強会が始まるのである。
 知事会議室の上座の正面に知事、両脇に3人の副知事、出納長、総務部長が座り、審査されるほうは、メモ作成の部の部長が正面、両脇に次長と担当課長が固め、三役と対峙するのである。
 当時の筆頭の副知事は、三上顕一郎氏で、この人は容貌怪奇、道庁随一の実力者であった(自治省採用で、若いときには岩手県警の課長。堂垣内知事退任後後継として社会党の横路氏と知事選を戦い敗れる。)。
 この副知事は、本省の局長が挨拶に見えても背広も着ず、意に沿わない市町村長などが挨拶や陳情に見えると、一発で罵倒されるという大変な猛者であった。
 この副知事が答弁書の審査のときにあれこれ言い注文をつけるのである。この人に言われると大概の部長は、反抗できなかったが私が仕えた海軍兵学校出身の腹の据わった部長と私は徹底的に抵抗した。
 いつも三上副知事の真正面に座って、にらめつけるのが私の役目であった。
 (私は、今でも忘れないが附中の3年のときの担任の岩館先生から『君は、目に特徴がある。いつまでもその眼光を忘れるな』といわれていた。もっともこの後数年後に本省に戻り、婦人少年局で女性連中に囲まれたときには、(今度の課長さん目がこわいわね)とよくいわれ、赤松局長が(吉田課長もよく見れば、立派な顔をしてるわよ)とかばってくれたが、(よく見なければ、立派でないのか)私は内心ではいつも不満に思っていた。
 局長は、後に文部大臣になるが、私も内心では彼女も(よく見れば立派な顔をしているなあ、父親の血を引いたのかなあ)と私は、そばに仕えていつもそう思っていた。因みに彼女の父親は、画家で代表作は、今も上野の芸大に所蔵されているはずである。
 この『よく見れば』の二人が女子機会均等法の時には、当時自民党の最高の実力者金丸総務会長を尋ねて、後の佐川急便事件で金の延べ棒で有名になる永田町の金丸事務所、パエロワイヤルに行った。
 法律を国会に出すときには、まず自民党の政調会のOKをとってから総務会に出して了承を得なければならないのだが、この法律の場合には、時間が切迫していて、総務会で先に了承を求める必要があり、金丸会長の了承を取りに向かった赤松局長についていったのである。
 豪華な応接室での金丸会長は、さすがに眼光鋭く、腕を組んだままたった一言(分かった)といったが、私も局長の隣で岩舘先生の言うぎょろ目で金丸会長をにらめつけていた。ノーといわれれば、時の中曽根総理がこの法律に積極的だといっても国会に出せない。)
 さて道庁の御前会議。私はこの三上副知事が労働問題に言及すると(このド素人めが、俺の方が労働問題ではプロなんだ)と内心思いながら部長と一緒になって徹底的に三役の前で抵抗した。
 こんなことを重ねているうちにやっと三上副知事にも少し一目置かれるようになってきた。
 正面に座っている堂垣内知事は、学者タイプでわれわれのやり取りを静かに見ているだけであったが、両者で判断が分かれると、最後の裁きはさすがに知事がきちんとつけてくれた。
 
 職業対策課の仕事は、超多忙、とてもすすき野で酒を飲んでいる暇もない。
 当時内閣改造があって労働大臣が変わると、新任の労働大臣は、早いうちに北海道を視察するというルールが出来ていた。その窓口の担当課が私の課であった。
 新任のK労働大臣が3泊4日の日程で視察に来ることが決まった。何しろ大臣が動くとなれば、官房長、局長、課長が2,3人ついてくる。
 他の視察の場合は、こんなに大げさではないが、問題の山積している北海道の場合は、防御が大変であった。
 それに当時の北海道は革新勢力が強くて、社会党の国会議員も多く、この議員たちが大変義理堅くて、大臣の視察に一緒について回るのである。
 道警による警備の手配、道の経済団体、労働団体からの陳情の受理、炭鉱、函館ドックの視察の手配、知事との会談、夜の懇親会、記者会見等・・・
 千歳空港での出迎えから函館空港の見送りまで分刻みの日程を作り、本省とすり合わせをして決めるのであるが、これが何度も変更になる。
 私が全部仕切り、何か問題が出れば私が全部責任を負わなければならないのである。
 
 まあ、こまごまとした色んなことがあったが、今回の視察の目玉は、『夕張新鉱』という政商といわれた萩原吉太郎が率いる北海道炭鉱汽船、北炭が最後の命運をかけた炭鉱の視察であった。
 私も炭鉱に入るのははじめてであったが、機会があれば是非入りたいと思っていた(本省で法律の折衝を通産省としたときに、鉱山保安の連中に「炭鉱に入ったこともないのにでかい口を利くな」といわれショックをうけたことがある)。
 労働大臣、道内選出の社会党の国会議員(炭労出身者が多い)、本省の役人の一団が完全に装備した服装に着替え、エレベーターで1000メートルぐらい降りて、坑道に出、しばらく歩き、最後は這ってやっと通れるようなところもあって、ジャンボといわれる掘削機のあるきり端に出た。
 地鳴りがひどく、小さな崩落が随所にあってまるで地獄のようであった。
 こうしたところで労働者は、母ちゃんの作ってくれた白米のドカ弁を食べるのだが、上から落ちてくる炭塵でまるでゴマをふった弁当のようだとか。彼らの労働の厳しさがしのばれる。
 ばーん、ばーんという音やら、ゴーという地鳴り、振動もあってほうほうのていで鉱外に出たときには命拾いしたと思った。
 足の悪い年配の国会議員(炭労出身、衆議院の副議長)は、4人の炭鉱マンに担がれて出てきたのは、象徴的であった。
 身体を洗うために、炭鉱の大きなお風呂にはいつたが、蛇口をひねってお湯を出し顔を洗おうとお思ったが、出てきたのは、真っ黒いお湯、吃驚してると、隣に居た、真っ黒いお湯で顔を洗っていた炭労の事務局長から衆議院に出た先生が(そんなもんで吃驚しているようじゃあ、一流の炭鉱マンにはなれないぞ)と冷やかされた。
 今にして思えば、懐かしい思い出である。エネルギー革命や海外炭との価格競争に敗れ、今では、日本では石炭を掘っている炭鉱は一つもない。
 大臣視察が、無事終わって気が楽になってから数ヶ月が過ぎて、夕張の清水沢炭鉱が閉山という情報が入ってきた。
 この炭鉱は、56年の7月に閉山するのだが、炭労との間に話し合いがつくと、その前に私どもの課は、再就職の相談会を現地で開くのである。
 この炭鉱の場合も、600人以上の首を切られる炭鉱マンを会社の大きな講堂に集め相談会を開いた。
 冒頭私が挨拶に立ち、相談会を開いた趣旨、これからの手順についてアウトラインを説明し最後に当時大ヒットしていた高倉健の『幸福の黄色いハンカチ』を引用してこう結んだ。
(皆さんの家の庭にも黄色いハンカチを高くいっぱい掲げて幸せになりましょう!!!)と。
 私は山田洋次監督の映画で、網走の刑務所を出た高倉健が夕張の以前に住んでいた炭住に来て賠償千恵子ふんする妻が上げた風にはためく黄色いハンカチを見上げるシーンを思い出しながら、感傷的になって訴えた。
 
 夕張には、炭鉱以外には働くところはない。結局、夕張に残って働こうという人は、ほとんどが私どもの斡旋で、大臣視察のときに入山した夕張新鉱に再就職したのである。

 ところが、夕張新鉱は、それから3ヶ月後にメタンガスの爆発、坑道火災を発生して、93人が死亡、57年の10月に閉山するのである。
 私が、『黄色いハンカチ』で送った人達も、死んだり、怪我をしたり、また首を切られえるのである。
 私は、ただただ唖然とした。
 
 夕張問題を含め北海道の炭鉱に何とか救いの手を伸ばしてくれるように、道議会の石炭対策特別委員会の先生方について通産大臣に陳情した。
 大臣室の絨毯にひざまずき全員手をついで、炭鉱出身の議員たちは大声を上げ泣きながら陳情していた。
 こんなものすごい陳情に出会ったのは私の30数年の役人生活でもこのときだけである。
 さて、夕張に行ったときには、北炭の三井のクラブに泊めてもらった。施設はもう古いが、かっての三井財閥の栄華をしのばせる跡が建物や置物のあちらこちらに残っていた。
 夜、会食のときの器なども、大料亭のものよりもすごいものが出たりした。
 酒を注ぎに来てくれた女の人達には、驚いた。着ているものがふた昔も前のもので、私は、戦前の満州にでも来ているのかと錯覚しそうであった。
 思えば、夕張は、炭鉱災害でなくなった方の未亡人が多かった。
 
 町は、炭鉱の閉山跡の崩れた事業所の残骸が残っており、かって家族同士で仲良く住んでいた炭住の家並みは、西部劇の映画で見るような入り口にばってんの形に板を貼った殺伐とした風景に変わっていた。
 こんな廃墟と化した町を見るのも私は、初めてであった。エネルギー革命の余波とはいえ、悲しく凄惨であった。
 その年の5月のゴールデンウイークに私は、この町を女房や子供たちに是非見せたいとお思い、札幌の駅前から夕張行きのバスに乗った。
 このバスで終点の夕張で降りたのは、私たちだけであった。
 家族は、夕張の町を見て、どう思ったのか、誰も何も言わなかった。
 しかし、今でもこのときの光景は彼女らの心の片隅に残っているだろうと私は信じている。あまりにも凄惨で彼女らはこのときは多分言いようがなかったのだろうと、私は思った。
 
  北海道の労働問題で当時の最大の問題は、冬になると建設業などで働いている労働者が30万人も解雇されるという季節労働の問題であった。
 5ヶ月か6ヶ月の間、家族も含めると100万人近い人達の生活がかかっていた。このため労働省では、特別の手当てを雇用保険の中から支給する制度を作り、時限的な制度としていた。
 このためこの制度の終期が近づくと、実に激しい闘争が起こり、その担当も私の課の所管であった。
 年の初めの御用始の日、1月4日に交渉して欲しいという申し出が共産党系の団体からあった。課長が会って交渉に応じてくれれば道庁内の座り込みはしないからというものであった。
 道庁内の座り込みは、絶対に困るので、やむなく応じることにした。
 交渉の当日、(何で年の初めからこんなことをしなければならないのか)と考えると私は無性に腹がたった。
 私は、この交渉に限らず、北海道で革新団体の連中と交渉するときにはいつも思っていたことがある。
 それは、県民所得が全国で真ん中ぐらいの北海道の連中がいろいろ役所を突き上げて、県民所得がどん尻に近い岩手県民は我慢して何も言わないのか、ということであった。
 はらわたが煮えくり返っていた私は、彼らの予想よりもずっと厳しい答弁をして、強引に交渉を打ち切って、自分の部屋に戻った。
 少しして知事の秘書から私に電話が来た。
 (知事室が座り込みで占拠されました。すぐに排除するように知事さんが大変ご立腹です)
 担当の職員が駆けつけてみると、一階から知事室のある階まで座り込みの人でうずまっていた。
 道庁の外では、右翼がマイクのボリームを一杯に上げて騒ぎ立てて道庁の内外は騒然としていた。
 (課長、警察を呼んで排除してもらいますか)
 担当の職員が言うのをとめて、委員長を呼んでもらい、私と対で話し合った。
(約束が違うではないか)
(あなたが、血も涙もない答えしかしないからですよ)
(座り込みを解かないなら、私は今後一切交渉には応じないし、どうしても解かないなら最後は、警察をぶち込んでごぼう抜きをするがそれでもいいか)
 さすがに委員長の顔色も変わった。無言のまま分かれたがそれからすぐに彼らは座り込みをやめた。


 北海道は、雇用の機会が少ない。そのためどうしたら雇用の機会を増やせるのか、北大のT先生と一緒に道内を調査して回った。
『たらこ』は博多の『明太子』、『こぶ』は大阪の『塩こぶ』、『たらの干物』は、京都平野屋の『いもぼう』北海道の原料に他で付加価値をつけて大いに儲けているのである。
 (―――北海道で加工して、全国に販売したら)
 (そんな手間のかかる、めんどうくさいことができますか・・・・)
 こうである。
 
 あるとき、労働省の雇用開発関係の研究会にこの北大の経済学部のT教授と一緒に呼ばれていった。
テーマは、北海道の雇用開発は、どうあるべきか。
T教授曰く。(苫東地区への大企業の貼り付けが必要です)
研究会の法政の清成忠男教授(後に総長)との学者同士の猛烈な論戦が展開される。
清成先生は(地場産業の中小企業の立地が必要)を主張
中央の先生に論破され、敗れて北大のT先生と一緒に肩を落として帰った苦い思い出がある。
 あれから20年有余、いまだにこの問題は、北海道では解決されていない。


 さて、例の労働省の蜜命はどうなったか。
国家公務員のポストで私は、密かに蜜命を実現するために必死に働いた。上司の部長とも仲良くした。
 夏なんか、部長は昼休みの時間に自分の車を運転して中島   公園のプールに、泳ぎに行っていたが、水泳の大好きな私も一緒に連れて行ってもらった。
 プールでは八頭身のビキニの水着をきたぴちぴちの女性たちが沢山泳いでいて疲れた私の目を楽しませてくれた。
 部長は、(課長さん、午後は寝てていいですから)と言ってくれたが、私は、蜜命のために寝ずに働いた。
 部長や次長などの労働部の三役も私の道への移籍のことは大変気にかけてるようだが、天下り反対闘争がきつくてどうにもならないようであった。
 職業対策課で2年が過ぎて、労働省も痺れを切らして、それならもう本省に引き上げるからという話になった。
 そんなあるとき、部長から密かに(道に入って君はどんなポストをやりたいか)と打診された。
 私は即座に(水産関係の仕事がやりたいです)と答えた。
 私は、労働組合関係の仕事や人を相手にする労働関係の仕事は,当分やりたくないと考えていたし、水産王国の北海道で水産関係の仕事で経験をつめば、いつか岩手に帰って仕事をするときにも役立つと思っていたからである。
 このため日ごろから、稚内、釧路、根室、函館などへの出張の時には何かと屁理屈をつけて、水産加工の工場や缶づめ工場など漁業関係の事業所を勉強して回っていた。
  道庁が中央官庁から受け入れる天下りの数は、全部で☆人と組合との間で決まっており、その頃は、枠一杯を使っていて、私の入る余地はなかった。そこで考え出されたのが、厚生省との一代おきの交代であった。
 厚生省との協議がやっと整い、厚生関係の課長をしていた羽毛田信吾氏が厚生省に帰ることになって(彼は、この後厚生事務次官、現在は宮内庁長官)、私が道に入ることになった。
 ポストは、水産課長ではなく、それよりもずっと重い労働部の代表課の労政課ということであった。
 自冶労は、労働部の代表課長と聞いて臍を曲げた。いまだ例がないのである。
 代表課長というのは、その部の予算、人事を握り、議会対策の要であり、次長に昇進する前のポストであった。
 しかも、労政課長は、道内のレフトの窓口であり、彼らがもっとも頼りにするポストであった。
 それだけに、天下り反対の着任団交は、熾烈を極めた。団交は、こちらは私一人。相手は、自治労の幹部は一切顔を出さず、怖いもの知らずの若い組合員のみ。
 目の黒いたまに、先の鋭利な錐を入れてかき混ぜるような私もかって経験したことのないようなものすごい団交をやった。
 北海道に骨をうずめるというのであれば、団交をやめるというものであったが、最後まで私はうんと言わなかった。(うんと言って降参したほうが、あるいは私の人生は開けたかもしれませんね。そのあと革新道政になったのですから)
 
 私が北海道を去ると、すぐあとには、厚生省から来てその後に労働省から出向したのが、現在足が不自由ながら頑張っている厚生労働事務次官の戸苅利和氏である。
  
 
 地方公務員になると官舎も変わった。少し小樽よりのほうに移って、道の庭付きの古い一軒家になったのである。
 ここには、東京に帰るまで一年住んだが、今でも忘れられないのが夏に札幌で50年ぶりの水害に会ったことと、冬の石炭風呂のことである。
 まず、水害のことであるが、その年は夏になると長雨が続いた。朝起きてみると、表通りの幹線道路は、水浸しになっていた。
 家の周辺には大きな川はなかったが、道路に出てみるとマンホールのふたが少し浮き上がっていた。
 そのうちあっという間に水が溢れてきた。それからほんの短時間のうちに床上まで水が上がった。
 私は、家族とともに、一階にあったテレビや何かの家財道具を二階に運ぶのが精一杯で、別棟の倉庫に積んであった文学全集の入った沢山のダンボールをかたずける暇はなかった。
 これらの文学全集は、若い頃、お酒を飲んだり、キャバレーに行ったときにも最低限節約して、歳をとってから暇つぶしに読もうと思って(その頃は将来小説を書こうなんて考えはまったくなかった。私は、代表的なノンフィクションの本は、これまでほとんど読んだが、小説はこれまで一冊も読んだことはない)買って、ためておいたもので300冊ぐらいあったと思う。
 これが水に濡れて全部駄目になった。私は、泣き泣きこれらの世界と日本の文学全集を処分し捨てた。
 それからもう一つ、被害は農産物にも及んだ。
 今度の官舎には、庭があったので、私は初めて百姓の仕事を始めた。私は、生来が凝り性で、勤めの帰りには、暇なときには釣具屋と園芸ショップによって、色んなものを仕入れては、釣りの仕掛けを作ったり、野菜の種を植えて端整に育てた。
 なす、きゅうり、トマト、かぼちゃ、じゃがいも、メロン、さやえんどうなど・・・もうすぐこれから収穫というときにこの水害にあって全滅。これ以来百姓はやめた。
 私は、水害にあったのは、子供の頃、アイオン台風で宮古の家の二階の天井まで水に浸かったとき以来である。
 そのときには、宮古では沢山の死者が出たが、それにしても50年ぶりにしかない水害にあうなんてよっぽどついていないと思った。
 次に、石炭風呂。これがなかなか厄介である。
 北海道では、燃料炭の消費が格段に落ちていた。そこで道では、率先して幌内炭の消費の拡大を図るために、官舎のお風呂は、石炭風呂にしていた。
 石炭風呂は、岩手生まれの人間にはなじみがない。うまく湧き上がると、お湯がぬらっとして気持ちよいが、それまでが大変である。
 まず火をつけるのが一苦労、火力を一定に維持しないと、釜が真っ赤になり、火事になりそうになったりして、怖いのである。
 特に冬は煙突が雪ですぐつまり、石炭が燃えない。
 どうしようもなく、我が家では、諦めて、零下10度ぐらいの寒さの中を歩いて15分ぐらいもかかる銭湯に入りに行ったが、帰りはすぐに湯冷めして、手ぬぐいもがじがじに凍って閉口した。
 
 部長が変わった。
 この方は、夏はゴルフ、冬は海釣りと決めており、多趣味な方であった。
 夏は、一緒にゴルフをやり、冬には部長が自分の車を運転して、よく積丹に私を釣りに連れて行ってくれた。
 漁師さんの立派な家に泊めてもらい、取立てのあわびやそいの刺身で夜遅くまで部長と一升瓶を開けて、酒を飲んだ。漁師さん達の家族は、何の飾り気も泣く、刺身も山盛り、魚の煮つけや汁は鍋のまま持ってくるのである。
 「―――明日、出発は、朝4時、カムチャッカに真だらを釣に行くからね」
 漁師(船頭)さんが甲高い声で言ったのには私は吃驚した。
 「・・・おいおい、カムチャッカに不法出国していくんですか」
 部長がそばでくすくす笑っている。
 「―――ロシアのカムチャッカ?まさか・・・・この沖のカムチャッカの根ですよ。深くて水深が200メートルぐらいありますよ」
[―――ああ安心した]
 私は続けて
「―――深場には慣れていますから、それに用意も万全だし・・・」
 私は胸を張って答えた。私は今回の釣りのために特別の仕掛けを用意していた。
 当時釣りの雑誌で宣伝していた『フィッシュカモン』(2万円ぐらいのもので、遠くから魚を呼び集めるという器具)にヒントを得て、水中に仕掛けが降りていった際に、『匂い』が出て、『灯りネオンサイン』がついて、海中に『振動』が起きて、えさが『光』って見えるような沢山の機能がついたものを色んな部品を寄せあつめて作った(かえって、2万円以上もかかった)。
 これを明日試してみる楽しみがあった。
 
 私は、これまでも色んな釣に色んなえさを工夫していた(世上効果があるといわれているコンドーさんだけは使ったことなし)。
 女房が嫌がるのを説き伏せて、ピンクのパンティストッキングを買ってきてもらいそれで小さな袋を作り、それにウニをつめたものを試したりした。
 秋刀魚も皮を砂糖で磨き、小さくきったものをマヨネーズで合えたもの、イカのふや墨で合えたもの、食紅で色をつけたものとか何種類もタッパーに分けていれ、どれが一番食いつきがいいのか試すのだが、つれてくると(カレーなどは100匹以上、北海道ではクーラーではなく魚箱です)夢中になって混乱して分からなくなるのである。
「―――さあ、これでも食べてもっと飲みなさいよ」
 船頭さんが、コップに酒をなみなみと注いでくれ、軒下に干していた、ほっけ、コマイ、すけそうの干物やとばを私の前にどんとつんだ。
 
 楽しい夢を見る時間も無かった。午前3時に飛び起きると、顔を洗って服装を整えた。何しろ北海道の日本海の冬の海である。間違って海に落ちたら一瞬でお陀仏、命がけである。
 登山用の下着を2,3枚重ねてきて、寅さんのような銀ぎら銀の腹巻に船宿の奥さんが作ってくれたおにぎりを入れ(そうしないと凍る)、ダウンの一杯入ったズボン、パーカーを着て、その上につなぎの合羽、毛糸の目だし帽、目が寒いのでゴーグルをかけ、手袋は、下に外科手術用のゴム手袋、その上に指先の切ったダウンの手袋、重装備である。歩くのも容易でないほど重たい。
 さあ、出港、波、うねりが高い。船は10トンぐらい。下ろす竿、仕掛けの用意をする。一時間ぐらい走って、カムチャッカについた。水深は150メートルから200メートル。うねりが高くて、隣の船も見えなくなる。私は、例の凝った仕掛けを電動リールのラインにつけて下ろす。なかなか底が分からない。夕べのお酒で元気一杯。海で酔っているのか、酒で酔っているのか分からない。
 少し見えた隣の舟では60センチぐらいの真だらが一度に2本つれたようだ。こちらの気もあせる。
 待てよ、こちらの竿も重い。真だらが引っかかったか。いや糸が上がらない、それは根がかりであった。一発で仕掛けはパー。
 泣くに泣けない。気を落とさず、リカバリーをはかり、真だらは駄目だったが、ほっけなどの外道は魚箱で二つ釣った(積丹では道庁の釣り大会(陸にテントを張り、徹夜で釣る)で3位になり表彰された)。
 真だらよりも命拾いをして何よりと思った。

 労政課に移って、遊んでばかりいたわけではない。仕事の質は違ったが、対策課よりは大分楽になった。
 しかし、議会対策の主管課長として道議会は、かなり意識していた。
 さて、当時、電力会社の中で原子力発電所がないのは、北海道電力だけであった。
 このため北海道電力は、後志の泊村に原子力発電所の立地を検討していた。
 道議会でもこの問題は、よく取り上げられるようになった。この問題は、労働部では、担当課は、隣の労働福祉課であったが、この問題は社会党の議員のほうが勉強しており、道庁のほうが対応に遅れていた。
 所管の産業労働委員会で、労働者の被爆問題が取り上げられたときには、課長以下担当課は随分あわてていた。
 これは危ないなと思ったので、私は議会担当として、委員会をとめられないように労働省とコンタクトをとって、密かに勉強していた。
 
 委員会の当日、社会党の原発を得意とする議員が労働者被爆の問題を多角的に鋭く突いてきた。
 答弁者の部長には、担当課の課長では対応できず、私が部長のそばについで対応した。
 質問者の議員は(担当でない課長が部長を補佐してるようだが)とけん制をしてきたが、かまわず、部長の補助を続け何とか議会を乗り切った。
 泊原発は、今1号機、2号機が稼働中、3号機は建設中である。

 
 北海道の大歓楽街、薄野。
 当時は、お店が4000軒、働いているホステスが2万人といわれていた(今は、薄野の住民が8万人といわれている)。
 しかし、私はどういうわけか、薄野はあまり好きになれない。
 薄野よりも稚内、根室、釧路、旭川、帯広、函館のような地方都市で酒を飲むほうが味があり、楽しい。
 薄野の女性たちは、気軽に誘ってくれる。ついていくと、真面目な人ほど深みにはまりやすい。特に札ちょんといわれた単身赴任者たちは、真面目な役人とかが私のいる当時には深みにはまって、おぼれて自殺などをしていた。
 薄野の思い出は、私にはないが、一つだけ嫌な場面に出くわしたことがある。
 それは、道議会の議員達と薄野ナンバーワンのTクラブに行ったときのことである。
 丁度、そのクラブに飛行機事故で亡くなる直前の坂本 九ちゃんが飲みにきていた。
 それを議員の先生方が見つけて、九ちゃんに『上を向いて歩こう』を歌って欲しいと頼んだが、九ちゃんは断っていた。
 しかし、議員の先生方がしつこく迫るので仕方なく歌ったが、その歌の下手なこと、気持が入ってないで歌うとこんなことになるのか、私は驚き、九ちゃんが可哀想になったことをおぼえている。
 
 
  附中の就学旅行の思い出の一つが登別温泉。
  私は、北海道在任中は、附属の思い出に引きずられるわけではないが、毎年家族をつれて正月三が日は登別の第一滝本で過ごした
 9月か、10月の1日に申し込みの受付が始まると、2,3時間で一杯になる。
 滝本は、全館を立て替えて当時の面影はなかったが、わずかに1500坪の大浴場に修学旅行当時の面影は残っていた。
 しかし、それとて男女間に壁の仕切りが出来て、道内No1の地位は失った。それにしても当時のぴちぴちした裸像が目に浮かんでくるようである。
 私が在任中によく行ったのは札幌の奥座敷、定山渓温泉の定山渓ホテルである。
 ここは、第一滝本にかわって道内一ではないかと思われる800坪の大浴場が混浴で、中に入ると青森の酸ヶ湯温泉には、黒い髪の白い肌の白きつねが居たが、ここには毛深い 親子熊が何頭も温泉につかっていた。
 実に色気抜きのほほえましい風景である。
 
 
 北海道は、食べ物が美味しい。大分紙幅を超過したが、少しはふれざるを得まい。
 修学旅行の時には、各人が米を持参し、変わりに北海道のまずいご飯を食べさせてもらったが、今は内地と比べてもお米は遜色ない。
 なんと言っても北海道は、海産物や農産物はうまい。
 私のお勧めは、『花咲がに』。根室の辺りで取れる真っ赤なとげの一杯あるかにである。
 いつか根室に出張したときに、私ども3人の客に魚箱でドンと山盛りに『花咲がに』が出され、お互いにものも言わずに、私は7匹食べた。これまで最高のもてなしであった。
 この蟹の甲羅を開けるとついているのが『ふんどし』これがうまいのである。
 そのほか、変わっていて、うまいものは、『かすべのぬた』、『にしんの刺身』、『カジカの鍋』、『かい(つぶ、ホッキ)のつくり』、
『氷下、宗八の干物』であろうか。
 ラーメン、ジンギスカンは出張者へのご馳走の定番、最後は飽きて、私は、ラムの肉を焼かないで、生で食べていた。

 最後は、軽い話で終わりたい。
 職業対策課に居るとき、仕事に疲れ机に座ってぼんやりと窓から外を見ていると、向かいの毎日新聞のビルに大きな垂れ幕が下がって、北海道の歌謡曲の歌詞を募集していた。
 それからというもの私は、札幌に居ても、地方に出張に出ても暇なときは歌詞ばかりを考えていた。
 網走刑務所の前を流れる川にかかった鏡橋での男女の別れ、稚内の桟橋での樺太航路の親子の別れなど私の書く詩は寂しいものばかりであった。
 結局私は、『立待岬』という題で、函館にある当時あまり知られていない岬とその近くにある先輩の石川啄木の墓にちなんだ歌詞を書いて応募した。
 ところが毎日新聞が募集していたのは、希望がわくような明るい歌詞というで、悲しい歌詞を出した私はぜんぜん問題にされなかった。
 この歌詞の審査員は、吉田 旺という有名な作詞家であった。
 審査の後に吉田 旺は、『立待岬』という歌を作り、森 昌子に歌わせ、昭和57年に古賀正男大賞を受賞している。
 勿論私が書いたものとは、違うわけだが、この歌詞の中に『北の岬に咲く浜茄子の』という1節がある。
 私が作詞したときに、『浜茄子』という言葉を入れたいと思って、念入りに調べたのだが、「立待岬」には、ハマナスは咲かない。
 『立待岬』に、ハマナスが咲くようになったのは、ハマナス公園が出来た昭和62年からである。
 
 私は、道の幹部や全道労協という北海道のナショナルセンターの幹部に北海道に残らないかと強く勧められたが、その好意を振り切って、昭和57年にまた東京に戻った。
(第三話 完)

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