ノンジャンル No.064

投稿日 2006/04/28  第4話  盛(もり)の石松 金比羅さんに登る
寄稿者 吉田一彦

 昭和63年度の政府予算の原案が固まると、中途半端な時期、62年の1月16日付けで、私は、香川労働基準局に異動させられた。
 私の後任は、年次が5年後の澤田陽太郎氏(4年前に厚生労働省の事務次官で退官)。
 私クラスの異動は、通常は国会開けの7月か8月と決まっているのである。私のまったく予想外の異動であった。
 この年の正月ほど、不安でいらいらした気分で迎えた正月はない。

 ―――なぜこのような中途半端な時期に、左遷に近いような異動をさせられたか。いくつもそれらしい要因が考えられるが、自分でもいまだに決定的な要因は分からない。
 
 新潟以来のコンビ、今回も上司であった加藤局長(この後すぐに事務次官に昇進、リクルート事件で逮捕)に対して私が予算の使い方について直言していたことに対する同局長の怒りか。
 無理難題を押し付け、ことごとくノーと答えて私とそりのあわなかった山口敏夫労働大臣(この後、二信組事件で逮捕、政治家失脚。私自身もドロップアウトしたが、私に意地悪した人は、不思議なことに、ことごとく、何かの事件で逮捕されている。例えば、KSD事件の村上元労相、労働省に部長で出向していたエイズ事件の松村元厚生省局長など)の指示か。
 ある国際派の総評の幹部が中曽根総理のところに直接持ち込んだソ連の南太平洋への接近戦略を防御するための予算の増額要求の件に対する大蔵省の怒りか。(これは多分労働省の局長以上の誰かが仕掛けた案件だろう。(大蔵省をなめるなと!)と罵倒され、こってりと私は大蔵省に絞られた。私は、労働省が差し出した生贄に・・・・)
 一つ目の要因でないとすれば、加藤局長でも後の二つは止められなかったであろう(事務次官のポストが目の前にぶら下がっていたから。
 加藤夫妻は、不思議なことに高松への赴任の直前私と女房を築地の料亭に呼んでご馳走してくれた。
 私は頭にきていて、料理の味が少しもせず。)。
 
 3番目の要因が一番可能性が強いと私は思っている。
 私は、大蔵省から飛んでくる弾の『弾よけ』にされたのだ。
 私は、心の中で密かにリベンジを誓った。(くそ。負けるものか!!しかし、ダメージは大きく、結局、最後まで二度と浮上できなかった。)
 
 第1話の鳥取、第2話の新潟(1回目)、第3話の北海道は、薔薇色の希望に燃えた地方勤務であったが、今回の高松行きは、怒りと絶望に彩られた地方勤務であった。
 私は、子供の進学のこともあり、山陽新幹線の岡山で乗り変え、宇野から宇高連絡船に乗って単身で高松に赴任した。
 
 まず手始めの仕事が世紀の大工事、瀬戸大橋の視察。この橋は、岡山県の倉敷と香川県の坂出を結ぶものだが、90パーセント以上がわが香川局の所管であった。
 
 私の視察する日は、たまたま強風10メートル以上で工事が中止の日であった。
 安全装備で、本四公団のタグボートで橋脚に着き、100メートル位上の基地に着く。
 ストランドが風で大きく揺れており、足場のキャットウォークは、金網のようなもので、これも風に揺れ、足が突き抜けそうで、100メートル下の海は止まっているように見える。
 とても怖い。
 しかし、こちらは、監督官庁だから、行政の沽券にかけても本四公団の連中や建設関係者に弱みは見せられない、私は6つ目の高架橋、『南備讃』の吊り橋のキャットウォークの上を胸を張って歩いた。
 
 あと少しで完成というところまでこぎつけて、『南備讃』大橋の工事は、最終段階になって、ご難続きであった。
 まず、居眠り操舵の船が橋脚にぶち当たった(この橋の下は、国際航路。高さの問題で、ここを通れない船は、当時は世界でただ一艘、イギリスの帆船のみ)。
 次に、自走の足場が突然動いて、2名が転落死亡。すぐにわが行政は、『使用停止命令』をかけて、工事を停止させた(労働安全衛生法の違反については、わが行政は、特別司法警察権をもっている)。
 さあ、大変。東京の本社から工事請負の会社、例えば日本鋼管、横川橋梁の副社長クラスが謝罪と早期工事の再開を要請するために役所に日参した。
 工期という問題もあったが、働いている何千人の労働者に賃金を払わなければならないというだけではなくて、機械のリース料も一日600万円も支払わなければならなかったからである。
 しかし、駄目なものは駄目。しっかりとした災害発生原因の究明と対策の確立がない限り工事の再開を認めるわけにはいかないのである。
 結局、数ヶ月がたって工事はやっと再開された。
 
 瀬戸大橋は、翌年私が東京に戻ってから全長が開通した。
 工期9年半、総工費1兆1300億円、工事に従事した人、延べ860万人、道路と鉄道の併用橋では、当時世界最長の9368メートルの橋が完成したのである。
 
 私は、建設真っ盛りの本四公団の表彰式に参列したときに、この工事に従事している赤銅色に焼けた短髪のきりっと引き締まった顔の沢山のスリムな男たちを見た。まるで映画に出てくる高倉 健のようであった。
 ニッカボッカの作業服を着た、東北からも沢山出稼ぎで来ている男たち、実に格好がいい。
 私は、懇親会の挨拶の中で叫んだ。
(―――みなさん、毎日、毎日ご苦労様です。今日は、たっぷりお酒を飲んで、今晩は、故郷のカーちゃんの夢でも見ながら、しっかり眠ってください・・・・)
 思えば、打ちのめされた自分に対する激励の言葉でもあった。
 
 この人達は、瀬戸大橋の工事が終わると、今度は、イギリスのドーバー海峡のトンネル堀の工事に従事するのだという、私は、心の中で彼らの安全を祈った。

 私は、東京と高松の二つの生活になると、公務員の給与では生活が苦しかった。このため自給自足に近い生活を始めた。
役所が休みとなる土日などは、5時ごろ起きて、暗闇の中を自転車の荷台に前にはゴルフのドライバーとアイアン数本、後ろには釣りの道具を乗せて家を出た。
 まず、最初に向かうのが宇高連絡船の船着場、高松駅の近くの『赤灯台』の突堤、ここで黒鯛(この地方では『チヌ』といいます)釣りをするのである。
 紀州から伝わったといわれるこの地方独特の『爆弾釣り』―――糠と砂とサナギとおからを混ぜたもので、砲丸の大きさのダンゴを作り、中にえさをつけた針を入れこの玉を投げ入れる。
 水中の中で、ダンゴが程よくとけ、針をぼやかす。チヌは頭のいい魚だからこんな複雑なことをしなければなかなか釣れないのである。
 この釣りのコツは、一にかかって、ダンゴの水加減、これが極めて難しいのである。硬すぎると、玉がとけない。柔らかすぎると、投げたときに空中で分解するのである。
 だから丁度良いダンゴを作らなければ、釣果はない。釣果がないと私は、生活できないのである。
 地元のこの釣りを私に教えてくれた人達は、今年中に釣果を上げるのは無理でしょうといっていたが、私は、生活がかかっていたので、真剣勝負、もう10匹ぐらいを上げていた。
 チヌは、刺身もうまいがそれよりも塩焼きの方がもっとうまい。家に帰るとこれをおかずに朝飯を食べる。
 チヌだけではない。小さな『ふぐ』や、いわしも沢山釣った。特に『ふぐ』は、地元の人は捨てていくが、私はこれを拾って、家で三枚におろし、血を綺麗に注意深く洗い落として、刺身にしたり、焼いたり、これが結構うまくておかずになるのである。
 こうして生活の足しにした。
 
 朝の太陽が瀬戸内海に昇り、夜が明けると釣り道具をしまって、次に、自転車で10分ぐらい走った海べりのゴルフの練習場『青春ゴルフ場』に向かうのである。
 この練習場には、名前が気に入って私は良く通った。全長240ヤード、このネットにドライバーでダイレクトに打球をぶつけることが私の目標であった。
 私の先生格のシングルプレイヤーの職員は、いとも簡単にネットにぶつけるのに私のボールはずっと手前でお辞儀して、私は悔しくて何本もドライバーを買い換えた。
 繁華街のゴルフ屋に行って私の狙いを話すと、店長が
(このドライバーなら軽くネットに当たりますよ)と言うので、そのドライバーを買って、仕事が終わって練習場に駆けつけてナイターの中で打ってみるとネットにダイレクトで当たっているように見える。
 (しめた。今度こそは)と思って、次の日、昼間に打ってみるとやっぱり当たっていないのである。
 結局この繰り返しで、非力な私は、隣で打っている婦人少年室長の女性用のドライバーを借りて打つと一番飛ぶというていたらくであった。
 忘れもしない高松を離れる最後の日に、最後の一球がネットに当たらず、手前で落ちたときには、本当に悔し涙が出た。
 
 
 私の宮古の母は、信心深い人であった。この74歳になる母が新幹線を乗り継ぎ、岡山まで迎えに出た私と宇高連絡船に乗って高松にやってきた。
 母の一番の目標は、海の神様、讃岐の金比羅さんにお参りすることであった。
 この母は、2カ月位私と一緒に暮らしたが(13歳で附属、一高に入るために宮古を離れて、盛岡で下宿生活をして以来、こんなに長く母と一緒に生活したのは初めてで、これが最後であった)、体調のいい日を見て、琴平に行こうということにしていた。
 何日かして、もともとひざが悪くて、歩くのがにがてだった母が体調を崩して近くの病院にかかった。そのうち大分良くなって
医者に金比羅行きを打診したら石段が多くて、駄目だといわれた。
 宮古に帰る予定が近づいてきて、大分体調が戻ったので、医者に再度確認したらどうしても駄目だという。
 何しろ金比羅さんは本宮まで階段が785段もあった。
 私も何とか母を金比羅さんにお参りさせたいと思っていろいろ研究してみた。
 駕籠で行く方法、これはいくらお金を弾んでも途中までしか行かない。
 県の許可を受けて車で行く方法、これとてせいぜい途中まで。
 私が、もう少し若かったら、おぶって登るか。これとて、もしそんなことをしたら私のほうが死んでしまう。
 あれこれ考えているうちにいい方法を私は、見つけた。
 私は、決心した。

(さあ、母さん明日、金比羅さんにお参りに行こう!!!)
母は、最初は吃驚して、少ししてから笑顔を覗かせた。

 翌日、駅前から琴電に乗って、金比羅さんのある琴平に向かった。
 車中、母はこんなことを言った。
(この辺の人達は、皆立派なお家に住んでいるんだね。白い土塀に、うだつの上がった瓦屋根、宮古なんかは、屋根はトタンだよ)
 私が答える。
(高松の人はね。うちの周りに塀を回すことが、カイショなんだって。お金がたまると、競って塀を作るそうですよ。屋根は、岩手は雪が降るからね。かわらじゃもたないかも知れないね)
 電車は、琴平に着いた。参道まで少しばかり歩いて、さあ、いよいよ問題の石段だ。
 見上げると、両側のみやげ物屋や食堂の真ん中には空まで届きそうな石段が待っていた。
 私は、大きな紙袋からバスタオルを二枚重ねて出して手に持った。母が2,3段上がると石段にタオルを敷いて腰掛けさせて、母を座らせた。
 少し休ませて、さらに2,3段登るとタオルを敷いて休ませた。
石段は785段あったから260回近くこの動作を繰り返して登ったことになる。
 私もかがんでタオルを敷いたり、取ったりして腰が痛くなったが何とか我慢して登った。
 辺りの観光客もなんだろうと思って、不思議な顔をしてみていたが私は気にとめなかった。
 本殿のあるところまで、上ったときの嬉しかったこと、そこからはるかに眺める、讃岐平野、讃岐富士、瀬戸大橋の工事現場が
私の汗と目に溢れ出るもので霞んで見えた。
 登るのに相当の時間がかかったが、ここから更に583段上の
奥社は勿論諦めて、途中現存する日本最古の歌舞伎劇場『金丸座』を見学してゆっくりと下山した。
この『金丸座』だが、東京から名だたる歌舞伎役者がきて芝居を打つということは翌年から始まったが、私も歌舞伎公演を見ようと思い切符を取ろうとしたが、一杯で駄目だった。
 
 さて、大きな目的を達して、ゆったりと過ごしていた母は、私が釣ってきたり、役所の帰りにスーパーで買ってきたりする魚を
見て気の毒がっていた。
(私には、公用車がついていたが、雨の日以外は使わなかった。役所の自転車を借りて通勤していた。
 単身赴任できている国の出先機関の長たちは、ほとんどの人が一度家に帰って着替えて、スーパーの袋が隠れるような布の袋を持って、買い物に出かけていたが、私は、また家から外に出るのが、めんどくさいので、背広を着たまま途中のスーパーによって、ねぎや刺身などを買ってそれをチャリンコにつけて家に帰っていた。
 一度これを役所の本省出身の庶務課長に『局長、格好が悪いからやめてくれませんか』といわれたことがあるが、『馬鹿、なに言ってんだ。俺にも生活があるんだ!!』と言って一蹴した。
 もっとも、彼から受けた忠告のうち『パチンコ屋に入らないで下さい』(もともと私は、パチンコはやらない)と役所から50メートルしか離れてない市役所で開かれる知事も出席の月一回の出先機関長の集まりへの随行者つきの公用車の使用は、役所の面子がありますから是非お願いしますといわれ、しぶしぶ従っている)
 母曰く。
「お前は、こんなごみみたいな魚を食べているのか!」
「―――宮古と違って、瀬戸内海の魚は、小さいですが、美味いんですよ」
確かに瀬戸内の魚は、小さい。鰆は、別とすれば、チヌ、ベラ、
ままかり、皆小さいが美味である。
 地元で一番の高級魚とされてるのが、金魚みたいな鮮やかな色をしたアオべラの塩焼き。正式の名称は、キュウセンという。
 東京湾ではベラがつれるとすぐに捨てるが、高松で食べるべらの塩焼きは、身が白く上品な味がして本当にうまい。
 母に勧めたが、気持悪がって、食べなかった。
 それから鰆の刺身、それも鰆は身が柔らかいから皮付きの刺身、鰆は、地元ではサゴシといい、身が傷みやすいから高松でしか食べられないが、相当の美味。
 母は、これも駄目。母が好んだのは、ご存知ままかり。生のままのものを買っては自分で酢付けにして喜んで食べていた。
 この魚は三陸にはいない、正式にはサッパというイワシににた魚、隣の家に『ママ』を借りに走るようにそれほどうまいと言い伝えられてきた魚である。この酢付けは岡山名物。 
 しばらくして母は、宮古に帰ると、月一回、三陸の魚を大きな箱で、冷蔵庫に入らなくて困るほど送ってくれた。
 これは、瀬戸内海の魚が小さいせいばかりではなくて、私が予想以上にひもじい生活をしているのを見かねての親心だと、私は感謝した。

 もう一つひもじい話。
 3月になると、松で有名な特別名勝の『栗林公園』の200本ある梅の木に花が咲く。
 役所の某課が花見をするといって私を誘ってくれた。園内の相(はこ)松(まつ)、屏風松、鶴亀松などの有名な松の間をぬって歴史的な建造物『掬月亭』があるが、そこの座敷を借りて池に浮かぶ梅を見ながら愉快に酒を飲む会である。
 若い女の職員が折詰の二段重ねの弁当を買ってきてそれを食べながらの宴会である。
 総勢14〜5人程度、宴会も佳境に入り、座を盛り上げるために私同様本省から来た単身赴任の課長が馬鹿になって、ワイシャツとズボンを脱いで白い下着の上下で踊りだす。
 彼の着ている下着は、洗濯がまずくて、えらく皺皺で、単身赴任生活の侘びしさがそのまま出ていて気の毒に思った。
 (翌日、私は役所に出ると、彼を私の部屋に呼んで、洗濯の仕方を教えてやった。
 『脱水したらたたんで、片手に持ち、片手で上からたたけ、そうすれば皺も伸びるから。単身赴任のわびしさを人前で見せるな』、『はい分かりました』と言って彼は帰っていったが、果たして実行してるやら。
 家でこれまで奥さんに全部やってもらっている連中は、皆こうだ。私のように昔から主婦業も兼務しているものは違う)
 宴会が終わった。女の職員たちが後始末に取り掛かった。
 「お弁当を買いすぎて、4つも余ったわ。どうしましょう・・・」
 若い女子職員が困ったような顔をする。
 「―――局長さんに差し上げて、お宅で食べていただいたら」
 年配の女子職員が若い職員に指示し、4つの弁当を紙袋に入れた。
 「こんなにいただいても食べきれないから課長にも分けてやったらどうですか」
 私が年配の職員に言うと、彼女は
 「課長さんは、毎晩外で飲んで結構食べているからいいですよ。
 全部持って帰ってください・・・」
  私は、結局いただいて、冷蔵庫に保管し、一週間ほどかかって食べたが、最後は飽きて料理やご飯がかたくなってまずかったこと・・・・
  ゆっくり考えてみれば、単身赴任の悲哀さを出して同情されていたのは私のほうか―――
 
 香川県は、うどんの本場。
 例の出先機関の長の会議で、高松市長が雑談の中で発言した。
 「この間東北に出張した折りに、『稲庭うどん』を秋田でご馳走になりましたが、これは讃岐うどん以上ですなあ。讃岐うどん以上のものがあるとは知りませんでしたよ・・・・」
 私は、女房が秋田生まれで、昔から『稲庭うどん』はよく食べていた。その頃の『稲庭うどん』は、今と違って、透明に透き通り、光沢があって、腰があり、冷たくして食べても、なめこなどを入れて熱くして食べてもうまかった。
 それが段々と噂が広がり、東京の高級料亭で最後のお茶付けの代わりに使うようになってから味が格段に落ちていった。
 しかし、この秋田の『稲庭うどん』、福田さんと大平さんが張り合った群馬の『水沢うどん』、東京の『武蔵野うどん』、三重の『伊勢うどん』、名古屋の『きしめん』、富山の『氷見うどん』、奈良の『三輪そうめん』などいろいろあるが、まあそれにしても高松の人はよくうどんを食べる。
 当時統計を見ると、香川県の人のうどんの消費量は、全国平均の確か5倍ぐらいだったと思う(真偽のほどは分からないが、このため高松の女性は、腰が強いといわれていた)。
 私も昼飯は、ほとんどうどん、たまに日本そばや支那そばを食べたいと思って、店を探しても1,2軒しかないのである(去年高松に行ったら少し増えていた。)。
 もっともうどんは安く、竹輪のてんぷらをつけてセルフで120円もあれば食べられた。
 (セルフは、今東京でもはやっているようだが、自分で、うどんをあっため、だしや好きな具を入れて食べるスタイル。当時高松で、2軒ほどあった)
 中曽根総理も若い頃は、香川県警の課長時代に屋島の辺りに住んでいたとかで、高松に見えたときには、屋島のブランドのうどん屋でうどんを食べていた。
 高松には、屋島の店のほか例えば『かな泉』などブランド印のうどん屋が数軒あり、東京からお客さんが見えたときなどに案内するが、地元の人の通う店にうまいうどん屋がある。
  
 その一軒が琴平にある醤油うどん。これには私も最初は、驚いた。
 案内した庶務課長が店に入るとすぐに、(ちょっと手を洗ってきますから)と言って手洗いに入っていった。
 (へえ、この課長は見かけによらず清潔な人なんだなあ)と私が感心していたところにお店の人が、一本の皮を剥いた大根と下ろし金を持ってきた。
 課長が手洗いから戻ってきて、大根を下ろし金ですり始めた。
 何だと聞いたらこの大根おろしを茹でたうどんに載せてねぎ、生姜と醤油をかけて食べるのだという。
 (おい、ちゃんと手を洗ってきたんだろうなあ!!)私は、思わず課長に確認した。
 今このうどん『生醤油うどん』、『醤油うどん』、『ぶっ掛けうどん』は、呼び方は区々だが、要は茹でたうどん(釜上げ。これを水洗いしたものもある)にだしの醤油をかけて食べるのである。
 今は、メジャーになっているが当時は、珍しかった。
(私は、高松のうまいと評判の店から、盛岡の近郊に住む妹に一箱うどんセットを送ってやって、電話で感想を求めると(スーパーで売っているうどんと、大してかわりなかったわ)といわれてがっかりしたことがある。私は食べたことはないが、盛岡にはそんなうまいうどんがあるのか。もっとも私の妹は、魚以外は味オンチであるが。いかがなものか――――)

 (ああ、醤油うどんでもうお腹が一杯)という方もおられるだろうが、最後に『ドジョウうどん』。
 この店は高松空港近くにある。店に入ってこのうどんを注文すると、店の奥さんが裏の池にドジョウをとりに行って、ご主人がうどんだまを伸ばしてうどんを切って茹でて、丸々太った大きなドジョウと一緒に煮て出してくるので、相当時間がかかる。しかし、なかなか美味である。
 もっとも、浅草や深川の『駒形どぜう』と違って、相当ワイルドなドジョウなので、ドジョウの嫌いな人は、ドジョウのお目めやひげが気になってうどんどころではないだろうが。

(うどんの話は、これで終わるが、香川県にも小豆島の三輪そうめんの流れを汲んだ名産のそうめんや醤油、佃煮があるが、割愛する。小豆島は、『二十四の瞳』、『小豆島八十八カ所霊場の巡礼』、オリーブでも有名)
 
 香川県は、全国の90%のシェアーを持つ金比羅さんのお土産として、武士の内職として始められた丸亀の団扇や80%のシェアーを持つ白鳥の手袋が有名だ。

 私は、地方に出るとその土地に育っているオンリーワン(ナンバーワンではない。ユニークで、個性的という意味)の企業を見せてもらうことにしている。
 香川県には当時格好の企業があった。それが歌手の伍代夏子  の『カートーキッチャン、カトキッチャン』のコマーシャルで有名な冷凍食品の『加ト吉』と通販の『セシール』(数年前に創業者の社長が手を引き、今では問題のライブドアの連結子会社)である。

まずは『加ト吉』から
創業者は、魚の行商から身を起こし、当時観音寺(大平元総理の生誕の地、私は墓にお参りした)の市長をやっていた。
 この会社は、冷凍食品では、いまやメジャーになって、『カキフライ』、『エビフライ』などは、うまいと思い私もよく食べるが、
当時私が注目していたのは『冷凍うどん』であった。
 打ったばかりのうどんが、オートマチックに茹でられ、そのまま冷凍庫に入って製品になるのである。
 その出来たばかりの『冷凍うどん』を加ト吉本社の二階の試食室で食べさせてもらい、吃驚したのである。
 そして私が帰りの車で考えたことは、このうどんを使って東京の神田の駅前辺りで『立ちうどん屋』をやれば、儲かるだろうなあ、ということであった。
 このときから18,9年たった昨今、東京は空前の讃岐うどんブームで沢山のチエーン店が進出してきている。
 このうどんといい、新潟のなすのつけ物といい、度胸がないばっかりに、惜しくも私は大財閥になるシーズを二つ失ったことになる。

 次は『セシール』。
 テレビのコマーシャルで、男性の低音のフランス語で、『ll offre sa confiance et son amour』( 愛と信頼をお届けする )とささやく音が流れるからご存知だろう。
 女性下着の通信販売の草分けである。この会社の創業者は、自衛隊上がりの若いやり手で、私が居た当時は、毎年すごい成長過程を示し、高松でも非常に注目されていた。
 私が、この会社に注目し始めたのは、超過勤務手当の不払いを監督署が指摘したときに、時効で消滅している分も支払うと社長が言い出して、当時一億円も支払ったときからであった。
 それから毎年正月の従業員の表彰式に招かれて、行っていたが、この表彰式も大分変わっていて、まず創業者の正岡社長が挨拶で世界情勢から説き起こし、わが国経済の展望を一時間以上にわたって熱弁をふるうのである。
 そのときに社員達が感ずる社長のカリスマ性は大変なものであった。
 それから営業成績の優秀な社員に社長と東京からわざわざ招いだ女優の奈美悦子(後に美容整形手術で乳首を失ったとして話題になる。彼女はその後も難病の『掌せき膿ほう症』          にかかり、秋田の本荘の『第一病院』で完治したと手記で公表して、いまや『第一病院』には全国から患者が集まり、ホテルも満杯とか。勿論その当時は颯爽としていた)から賞状を手渡すのである。
 高松を離れてもしばらくの間私は注目してこの会社を見ていたが、時代の変化に充分対応できず、いつの間にか創業者の社長も経営から手を引き、昨年辺りからライブドアの子会社になった。
 
 高松から少し離れたところに、徳島県ではあるが鳴門海峡がある。鳴門の渦で有名なところである。
 ここには、役所の同好会で釣りにいった。渦のそばで小さな船に乗って、釣りの好きな女子職員も絣のもんぺをはいて手釣りで鳴門の鯛を狙っていた。
 なかなかどうにいったものであったが、それにしても大きな渦がすぐ目の前にせまってきて、本当に大丈夫かなあとどきどきしていると、『がしら』という赤いかさごに似た魚が沢山つれた。鯛は上がらなかった。
 船が大きく揺れる。
 隣で釣っている中年の女子職員に声をかける。
 (すみませんけど少し鳴門大橋の方を見ててくれませんか、ちょっと・・・)
 私がワンカップのびんに小用をたす。
  
 この鳴門には、かってはジャイアンツの選手のコマーシャルで有名な『オロナミン』の大塚製薬の社長の別荘と美術館がある。
 別荘は、鳴門大橋のすぐそばにあり、ベルサイユの宮殿をまねて作ったもので、すぐ分かる。美術館の所蔵展示する世界の名画はすべて贋作である。贋作の美術館を売り物にしているのである。
 
 
 3月になると沢山の白装束のお遍路さんの鈴の音がこの近くの一番札所『霊山寺』に集まる。
 四国路の春の到来である。
 私も年をとったら好きな人と二人で白い装束に身を固めて菅笠をかぶり、杖をついて、阿波や讃岐や土佐の春の匂いの中をゆったりと八十八所巡りをしたいものだと思っていたが・・・・・。
 「好きな人って、奥さんとでしょう」
 誰かが耳元でささやく。
 「違う。違う。『同行二人』。私の大好きな、讃岐の生んだ大天才、空海さんとですよ」
 私が答えると
 「なーんだ。がっかりした。空海さんとですか。じゃー、3人でまわりましょうよ」
 なぞの人物は、身を乗り出して答えた。
 日本の空前絶後の大天才、空海は、讃岐の善通寺の生まれである。
 
 旧盆の頃の『阿波踊り』もこの近くの徳島で行われる。今年の阿波踊りは、このあいだ済んだばかりだが、私は徳島の行政の仲間の連中に招待されて初めて、阿波踊りを見てその大迫力に圧倒された。
 今の言い方で言えばすっかりはまったのである。徳島の基準局のチームも家族も含め出場していたので、是非来年は私も仲間に入れて欲しいと局長にお願いしたら、(半纏を作って、お待ちしております)と快く応じてくれた。
 しかし、異動により4月に高松を離れたので、残念無念実現しなかった。
 
 高松には、『二蝶』という歴史のあるNo1の料亭があった(ここの女将さんは、元卓球のシングルスの世界チャンピオン)。
 ここで、何かの宴会のときに横笛を吹く高松一の綺麗な若い芸者さんに会った。
 私は、彼女の名前は、すぐに忘れたが、自分で勝手に『横笛の君』となずけていた。
 高松の近郊の87番札所『長尾寺』は、義経の愛人静御前が得度し、尼になって最後を迎えたところだと伝えられていた。
 私は、全国でいくつかある伝説に、さらに自分で勝手に『静御前伝説』をでっち上げ、鎌倉の由比ガ浜から流された義経と静の子供が宮古の漁師に助けられ、それが自分の祖先では・・・と前々から考えていたので、静御前という女性がどんな顔をしているのか興味があった。
 多分、『横笛の君』のようなうりざね顔で、どちらかといえば薄っぺらく、クールな美人ではないか。
 私は、母を慕うように静御前の影を追っていた。
 
 私が月の16日の給料日に地元の最有力銀行の114銀行の本店に家族への送金を振り込みに行くと、不思議なことに、いつもすっぴんの『横笛の君』に合い、よく挨拶の言葉を交わした。
 
 内閣改造があり、高松の実業界の出身の政治家が労働大臣に就任した。
 大臣に任命されると、お里帰りというセレモニイがあり、地元で盛大に祝賀会が行われるが、役所側でこれを仕切るのは私の仕事であった。
 色んな行事をこなし、最後に『二蝶』で大臣のポケットマネーでご苦労さんのご馳走になった。そのとき『横笛の君』にも座敷がかかった。
 私と彼女があまりにも親しそうに話しているのを大臣が見ていて、二次会のクラブに移ってからたっぷり嫌味を言われた。
「君は高松に来てから、あまり経っていないのに彼女とは随分親しそうだね―――」
「いや、銀行でいつも会いますので・・・・・・」
 私は言おうとしたが、あほらしくなって止めた。
 大臣は、その晩は、随分不機嫌であった。

 私の官舎は、海べりの集合住宅の中にあった。
 隣には、高松高等検察庁の刑事部長が奥さんと二人で住んでいた(この後、この方は、北海道のある地検の検事正で栄転)。
 私が役所から帰ると、隣の奥さんがドアをたたいて(預かり物です)といって宅急便の荷物をよく渡してくれた。
 お中元、お歳暮の時期には、役所はかなり自粛していたので企業からの贈り物はなかったが、母からの荷物や私的な荷物も企業からのものと誤解されて、私は収賄罪で逮捕されるのではないかとひやひやした。
  
 翌年3月の末に国鉄精算事業団に出向するために、高松を去ることになった。
 正式の内示が3月の中旬にあると、その日から午前0時を過ぎると、無言電話に悩ませられた。
 毎日5回ぐらい静まり返った部屋に不気味な電話のベルが響き、電話に出てみると若い男がへらへら笑って、何も答えず電話を切るのである。
 当時、国鉄改革は、新左翼も巻き込んで、かなりの政治的なイシューになっていたので、おそらく反対派の悪戯電話だろうと思っていた。
 
 高松は、たったの一年だったが公私共に親しい人達も出来、別れが惜しまれた。
 
 私がこのドキュメントを打っているパソコンのそばから『隆宮 暁』が物悲しい一日花、へメロカリス・・・主人公の明彦と義妹の香織との不倫の愛を書いた幻の作品、『ヘメロカリスの赤い海』が出てきた。
 何気なくぺらぺらとページをめくっていると、丁度高松を離れる明彦とガールフレンドの秋子が桜の下で別れる場面が出てきた。
 これを抜粋して、この第4話の話を終わることにしょう。

『―――約束の日曜日がやってきた。明彦が指定の場所で待っていると、黒のスラックスに赤いハーフコートを着たOLのいでたちの秋子が可愛らしい真っ赤な軽自動車を運転してやってきた。
 その車に乗せてもらって彼女が生まれた長尾の近くの桜の名勝に行った。
 中ぐらいの規模の池があり池の周辺の桜は今正に満開であった。
 車を止めて、二人は、桜の木の下を歩いた。桜の花びらが風に散って二人の顔を叩き、二人の姿を見えなくするほど、路に厚く積もっていた。
 「・・・東京で今度やる仕事は難しい仕事なんですよ。高松はたったの一年だったけど、楽しかったなあ・・・・もしかしたら東京では仕事で失敗するかも知れないなあ―――」
 「そう・・・・、仕事で失敗したらいつでも高松に戻っておいでよ。―――私が働いて面倒を見てあげるから!!!」
 化粧をあまりしてない秋子は、すごく真面目な顔をして弱気な明彦を励ましてくれた。
 明彦の目が潤んだ。
 秋子という女は、ホステスという夜の仕事をしていたが、この世界では珍しい純情な一面を持っていた。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 池の周りの桜の花びらのトンネルをひと回りして明彦は彼女との別れを惜しんだ。
 それから近くの八十八番札所の結願寺、大窪寺に最後のお参りをして、門前の古い食堂で簡単な晩飯を食べて秋子とはさよならの挨拶をして別れた.−――――――』
 
長尾生まれの秋子という女は、私が求めていた『静御前』似・・・だったろうか。

小説は、しばしばフィクションであることが多い。
(第四話 完)

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