ノンジャンル No.065

投稿日 2006/05/04  第5話 OLD MAN  Y氏の忘れもの
寄稿者 吉田一彦

−宗右衛門町からN.Yフィフスアベニューまで−
 
  ★忘れもの

 第3話を書くときには、ぜひ忘れないで入れようと思ってたことを後で気がついてみるとすっかり忘れていた。
 途中で気がついて田口絢子さんに連絡したのだが、タッチの差で間に合わなかった。老化の悪戯だろうと達観して、今度こそ忘れないうちにいの一番に書く。

 北海道では、北方領土問題などがあるため私が居た当時、駐道大使をおいていた。
 大使は、月のうち何日か道庁に在勤していた。
 初代の大使は、元駐イタリア大使の堀 新助氏(後のプロ野球パリーグ会長、テレビでおなじみの経済評論家 堀 絋一氏の父君)であった。
 大使が東京から見えると、道庁内の各部が交代でその時々の道内の諸問題について大使にレクチャーした。
 某日、私が「春闘情勢」を説明するために駐道大使の部屋を一人で訪れた。
 労働運動の動きについて説明中、『エルスバーグ』(1960年アメリカ国防省でヴェトナム戦争の計画立案に参画した高官の一人)の核持込についての事前協議のバクダン発言に関連する労働組合の動きについて説明した。

『エルスバーグの発言をめぐって・・・・』
 私が大使に説明すると、大使は
『君アクセントが違うよ。エルズ
ーグではなく、エルズバーグとエルにアクセントをおいた発音が正しいんだ』

 (アクセントなんてどうでもいいじゃないか!!)と私は内心むっとしたが、まるで附属中学での、机の間を教科書を持ちながら歩いては、アクセントや発音を注意する髪をきちっと7,3に分けた小田先生のように厳しい指摘であった。
 私は、当時は宮古一中から転校したばかりで、宮古弁の英語で苦労したが、ここでまた直されるとは、思いもよらなかった。
 確か、56年5月25日参議院本会議で、わが郷里の鈴木総理も『エルズバーグ』に関する答弁をしているはずだが、総理は、『
エルズバーグ』と発言しただろうか。
 
 もう一つの忘れものは、埼玉勤務のドキュメントのことである。
 ローカルと銘打つなら私の場合、埼玉時代のことを書かなければ正確さを欠くわけだが、今までもう400字詰めの原稿用紙に直すと、100枚以上も書き、皆さんにこれ以上嫌がられても困るし、それに、埼玉では2年勤務したけど、急激に膨張する業務処理に係わる組合対策に時間の大半を追われて話題もあまりないしと思い、埼玉時代のことは、割愛しようと思っていた。
 しかし、何か忘れものをしたようで落ち着かないし、せめて軽い話題だけを数点記しておきたい。
 
 前にもちょっとどこかで書いたが、私が従事した仕事は警察や検察庁と深い関係にある。
 
 晩秋の某日、ある警察筋に強いマスコミ関係の知人のセットで、仕事が済んでから夜、警察本部長と検事正と私と民間人2人の5人でプライベイトでお酒を飲みにスナックのようなところに行った。
 本部長にはボデーガードが付いているが、ボデーガードは店外で待機し、検事正は、バッチをはずして割り勘で気軽にお酒を飲んで、世間話をしていた。
 本部長は、私よりも年次が2年先輩で、検事正は、私よりも年上である。こうしてトップ同士が私的にも親睦を重ねておくと、仕事が円滑に進む場合が多い。
 話に熱中していたので、私は、あまり気がつかなかったのだが、一人の知らない酔っ払いがすっと、本部長に近づいてきて殴りかかろうとした。見たところ『まる暴』ではない。
 さあ大変。本部長や検事正は手出しも出来ないし、怪我をしても由々しき事態になる。
 一番何もなく身軽なのは、私だととっさに判断して、私は臨時のボデーガードになって、二人の前の壁になった。
 さすがに、お二人は、逃げの体制に入っていた。
 まもなく店の人が来て、酔っ払いを連れて行ったが、こんなお二人の生活も大変だなあと自分の気軽さをこのときほど素直に喜んだことはない。

 年の初めは、特に危険な作業の多い建設業界では、その年の安全を祈願するためにその土地の代表的な神社で祝詞を挙げてもらって安全祈願をやる。
 その年は、私は川越の氷川神社の安全祈願祭に招待された。セレモニーが終わってご苦労さんということで川越地区の土建屋の社長さん方5,6人とスナックのようなところに行った。
 私のそばにおねえさんが座った。
 清楚な30歳過ぎの色白の女性であった。聞くと、盛岡の出身だという。懐かしさのあまり岩手弁のやり取りで坐が弾んだ。

 なにかの話題に関連して彼女の口からひょいと次の言葉が出た。
「盛岡には、岩手大学の附属中学という上級家庭の優秀な子供達が入る中学校があるんですよ―――」
「おねえさんもそこの中学校に入ったのかい?」
 白髪が少し混じった一行の中では一番若い社長が尋ねた。
「私も随分憧れていたけど・・私なんかがとても入れるところじゃあないのよ―――」
「その中学校を出たら盛岡ではどこの高校に行くんだい?」
 社長が続けた。私は、一言も聞き漏らすまいと思いながら酒も飲まず、黙って聞いていた。
「それがまた、伝統のある進学校の盛岡一高という素晴らしい学校があるのよ。―――男性はほとんどそこに進学するわ」
「・・・・おねえさん、私は、黙ってさっきから聞いていたけど、実は私も附属と一高に入ったんだ」
 女性が目を大きく見開き私に敵意のある視線を投げ返してよこした。
「―――冗談言わないでよ。貴方なんかとても入れるような学校じゃないわよ―――」
「まあまあ、おねえさん・・・・」
 私の身分を知っている若い社長が彼女をたしなめた。
 私は、彼女にはそれ以上何も言わなかったが、心の中では誰もがあこがれる学校に入ったのを誇りに思うとともに、自分が卒業生に見られなかったことに対しそれほど自分が変質してしまったのかと思い愕然とした。
 しかし、次の瞬間、(今日一緒に来た少し柄の悪い連中と一緒じゃあしょうがないか)と土建屋の社長さん方のせいにした。
 盛岡生まれの彼女を見ると、私に夢を壊されかけて少しぷりぷりしながら何かを求めるうっとりした目つきをしてしきりに水割りを口に流し込んでいた。

(これは私の作り話ではありません。本当にあった話です。念のため)

 平成5年のゴールデンウィークが終わったばかりの5月の初旬、あるすっきりと晴れた皐月ばれの日に、私のデスクの電話がなった。
 受話器をとってみると、清水事務次官からであった。
『吉田君、5月の末日をもって後進に道を譲ってくれないか・・・』
 冷酷な宣告であった。私の前任者もここから東京に栄転し、私も同様の道をたどるだろうとの専らの噂だったので、私は、驚愕した。
『―――次官、私は、承服できません。他の人と同じように扱っていただけませんか・・・・』
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、清水次官に食い下がった。今回の措置に納得がいかなかったからである。
『それじゃ、官房長の七瀬君に言っておくから彼と話し合ってみ
てくれないか』
 それから2,3日して本省の人事の実質的な責任者である七瀬官房長を訪ねた。彼は、私の1年後輩である。
『―――あんた方は、私のことを
虫けら程度にしか思っていないだろうけど・・・』
 私は、相当頭にきていたので、喧嘩腰で切り出した。
『仕事は同じ仕事をさせておいて,―――処遇は別じゃあ納得できませんよ。何か私が仕事の上で失敗でもしたと言うのなら話は別ですが・・・』
『いや、失敗したわけではありません』
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それから私は日ごろから考えていた労働省の人事上の問題を
次々に官房長にストレートでぶつけた。
私が納得できる返事は何一つ返ってこなかった。
最後に官房長は、私に懇願するように言った。
『―――あなたは、
運が悪かったんですよ。あなたが私におっしゃったことは、清水次官には私から言っておきますから次官のところでは挨拶だけにしておいてください』
運が悪かった
 そんな曖昧なことで、30有余年の私の努力にペリオドをうとうとする労働省とははっきりと決別しようとその瞬間私は腹を固めた。
 官房長に案内された次官室では清水次官に淡々と挨拶だけして私は労働省を後にした。
 
私が官僚機構に完全に打ちのめされた日であった。


  ★補足

   〜宗右衛門町からニュヨークの5番街まで〜


 私は、労働省へ入省して独身時代に関西や九州に出張すると帰りは、日曜日などを利用し、途中下車して、大阪や神戸三宮、京都あるいは萩などで時間を過ごした。
 三宮では、荒んだ気持ちを癒すために夜の怪しげな街をほっつき回り、京都では名刹を訪れ、夜はやさしい京の言葉を求めて、三味線の音が流れる先斗町界隈のバーでお酒を飲んだ。
(残念ながらおねえさん方の言葉は、ほとんどが徳島弁などのよその言葉であった)
 初夏の萩は、私がもっとも好きな場所であった。萩に近づくと家々の夏蜜柑の木から薫ってくる
『萩の香り』、白い土塀の武家屋敷、明治の元勲の生家、吉田松陰の松下村塾・・・・・・
 萩焼の窯元を尋ねて歩く。私は、何度も萩へ行った。

 大阪の南の繁華街、道頓堀の宗右衛門町は私には、別の意味で懐かしい場所である。
 昔、ここに『ジュリアンソレル』というスタンダールの『赤と黒』に因んだレズビアンバーがあった。
 確か当時は島倉千代子の弟が経営していて、南海時代の野村監督や俳優の石原裕次郎が通っていて、ある映画の舞台にもなったという超高級クラブであった。
 そこで働いていたK嬢が私の友達であった。私が盛岡時代に一緒に下宿していた、京都の大学に入った宮古の従兄弟の友達で、ミス西院といわれた美人であった。
 そんな関係で私は、彼女と知り合いになったのである。私が大阪駅に下車するとお店の3,4人の女の子を引き連れていつも私を迎えに来てくれた。それからお店に直行。
 (芦屋の社長はんを家まで送らはって、ぎょうさんチップをもらはったの)
 そういって、当時一本3000円もするビールを何本もカウンターでご馳走してくれた。
 (結局私は、芦屋の大社長さん達のお金で飲んでいたことになるのか)
 (その店の男役の女性は、FTMの手術は、アフリカのモロッコ辺りで受けていたとか)
 彼女らは、今どうしているだろうか・・・・
 
 
こうした各地での細かい多岐にわたる経験をつんで、私は、噛み付く牙を研いでいた。
 各省との権限争奪のすざましい『ヤクザまがいの戦争』に勝つために(私は、この戦いが好きであった。勝ったときの喜びは格別。抗争の記録は、いつか機会があったらまた)
 
 
 外国勤務もローカルだ。キャリアーなら外国勤務もあるだろう。
 それが私には、ないのである。ないというよりも断ったのである。
 当時労働省には、ワシントン、ロンドン、ボン、パリー、ジュネーブなどの大使館などへ一等書記官、レバーアタッシェという身分で外務省に出向する外国勤務があった(今はもっと国が増えている)。
 私にも当然話があったが(希望しない)と断った。(当時は、国内派と国際派に分かれていて、どちらかというと外国勤務のない国内派のほうが出世に有利であった。
 日本からメイドさんも一人連れていけるし、手当てなどがあって給与も倍近くになるといって女房殿を説得したが、江戸末期、攘夷論を強硬に振りかざして時代に取り残された水戸藩士(義父は、水戸光圀(水戸黄門)が作った水戸の二つの管理墓地のうちの一つに桜田門で井伊直弼をぶった切った藩士らとともに入っている)の末裔である彼女は、(秋田が一番いいんで、外国に行くなら離婚します)ということだったので、私は断念した。
 そのくせ、結婚するときに、新婚旅行は、ぜひハワイにして下さいと申し出があったので、私はてっきり冗談でいっており、福島の常磐ハワイだろうと思って確認すると、本当のハワイだという。当時私にはそんなお金はなく、丁重に断った。
 (女房には、よく調べてインターナショナルな女性をもらうべきであったのだ。岩手の人には断られたのだが)
 
 このため、今回のレポートでは、少し国際的な色彩もないと寂しいので、退官後、T外郭団体が派遣したアメリカへの研修旅行の団長として参加したときの20日間の旅について簡単にふれたい。
 
 まず、乗り継ぎの地、デトロイトで引っかかった。それも二匹のアグレッシブドック、ブラックのラブラドールリトリバーにかぎ分けられて、私一人だけがトランクを開けさせられた。
 団員達は、遠くから見ていて、くすくす笑っていた。
 もとより私が麻薬をやっているわけもなく、セーフになるとワシントンDCに着いた。
 
 アーリントン国立墓地で、第35代大統領ジョン・F・ケネディとダラスでケネディが凶弾に倒れたときに砕け散った彼の脳髄を身体を後方にずらして必死になって集めようとしたジャクリーヌ夫人のお墓を見学した。
 それからホワイトハウス、FBI本部、スミソニアン博物館などを回った。
 翌日は、在アメリカ合衆国日本国大使館に行って、労働省から出向している一等書記官からアメリカの労働事情について説明を聞いた。アメリカはすべてがアバウト,参考になるところなし。
 
 夕刻、フィラデルフィアに向かう。ここは、アメリカの独立宣言ゆかりの地。シエラトンに宿泊。夕食は、外で今日も馬鹿でかいステーキ。
 翌日は、デラウェイ州にある世界有数の化学会社 
DUPONTの本社の視察。
 まず、朝食会から始まる。サンドウィッチ、サラダ、パン、コーヒーを立食でいただく。
 D社の幹部と私が挨拶。最初は緊張したが、以後企業視察は皆この形式で、私は、段々挨拶にもなれ、余裕が出来てアメリカ流のジョークも飛ばせるようになる。
 食事が終わると、会社内の見学。ブース方式で日本のオフィースとは随分違う。会議室で労働問題のレクチャーを受け懇談。
 論点はメンタルヘルスの問題など。
   
 
 翌日バスで、待望のニューヨークに向かう。
 超高層のビル、白いワイシャツにネクタイをびしっと締めたビジネスマン。車窓から見ていると、スピード感がまるで違う。
 7番街のホテル シェラトン マンハッタンに入る。
 荷物を部屋に入れると、しばしの休憩時間を利用して、新潟時代に部下だった研修生と二人で5番街に行く。
 私は、この研修旅行が外国旅行の初体験(同期の者は皆公費で5,6回も海外に行っているが、私は仕事の多忙を口実にされ行かせてもらえなかった。
 だから今回、団長の役を断ったのだが、先輩のT外郭団体の理事長に業務命令だといわれて強引にアメリカに行かせられた。
 しかし、こんな快適な旅なら何度来てもいい)だったが、5番街への行き方は、バスの中で図上訓練していたので、簡単で、何も問題なかった。
 ニューヨーク高島屋の斜め向にあるデパートに入り、娘に頼まれていた当時は日本では未発売のMACの口紅を色の番号別に20本GET。
 それから斜め向かいのテファニーの本店に入り、ぐるっとひとまわり、向かいのエルメスに入り、私の靴、ジョンロブ二足を買う(当時、エルメスが扱っていた唯一の他社ブランド)。
 同店で、コーヒーをご馳走になり、黒人の女店員としばし歓談。
 それから向かいの宝石店ブルガリの店に入って仰天。屈強な門番があけるドアをくぐって中に入ったら店内には何の展示物もなし。
 二人が呆然として立っていたら奥からエリザベステイラーみたいな美女がモナリザのような妖艶な微笑を浮かべて、片手に茶色の革表紙のリストを持って静々と出てきた。
 ついほだされて、ブルガリ ブルガリの私の時計をリボ払いでゲット(私の宮古弁の英語が通じて、後から来た請求書を見てこちらの条件どうりになっていたので、ひと安心)
 一緒についてきた新潟の研修生のおとうさんが不安がって、
(局長大丈夫ですか)としきりに心配していた。
店を出ると彼は、汗を拭きながら
(―――いや!!!驚きました。―――心臓がつぶれそうでした。それにしても団長もたいしたもんですね・・・)
 と言っていた。
 ホテルに帰ると、第一日目の視察のスタート。
 問題のトレードセンター、ウォール街、国連本部、ハーレムと回り、ナイトクルージングの船着場に直行。
 私は、Tシャツで船に乗せてもらえない。添乗員がジャケットを借りてきてくれて、危うくセーフ。
 ハドソン河の船から見るニューヨークの夜景は、実に素晴らしい。料理は、たいしたことなし。
 翌日は、ソマーズのペプシ通りにある
PEPSI CO、を視察。朝食会で私が初めてペプシコーラーを飲んだときの驚きと賞賛を交えて挨拶すると同社の幹部は気をよくして丁寧に対応してくれた。
 同社の関心事は、健康づくり。
 夜は、オプションのジャズ、ソーホー、ミュウジカルの中から私はミュウジカルを選び、ブロードウエイの劇場で『美女と野獣』を見る。
 金髪の白人やソバージュの黒人の女性の体臭と香水の匂いでむせ返り、全部英語の劇に気持ちよく熟睡。
 目を開けたときには、観客はほとんど帰った後であった。ブロードウエイの雰囲気だけしっかりと受け止め、貴重な経験。
 翌日、午前中は、電力会社の
CONSOLIDAITED EDISON OF NEW YORKを視察した。
 午後はメトロポリタン美術館の見学。規模の大きいのに驚く。
 全部見切れない。私は二階のルノワールなどの印象派の絵を走
 りながらみて満足。
 
  翌日は、ニューアーク空港からデトロイトを経由してバッファローへ。
 ホテルからニューアークへバスで向かうときに私たち一行は
ギャングに襲われた。
 100キロを有に超える頭を青くそり上げ、丸太のような腕に刺青をした4人の男が乗ったポンコツの大きなアメ車が私達のバスに体当たりしてきた。
 インデアンのような勇敢な顔をしたバスの運転手が窓越しに
口から泡を飛ばして彼らと猛然とやりあった。
 ライフルの弾が飛んでもおかしくないようなギャング映画に出てくるような緊迫したシーンであった。
 何とか切り抜けて、飛行機が空港を飛び立ったときには私もやっと安心した。 
 
 バスでカナダに入った。
 ナイヤガラの滝に向かった。青いすけすけのビニールのレンコートを着て『霧の乙女号』に乗って滝つぼのそばまで行った。
 ナイヤガラのホテルに一泊して、翌日はバッファローからデトロイト経由でサンフランシスコにとんだ。
 サンフランシスコは、知識の上では私もなじみの土地であった。サンフランシスコヒルトンに荷物を置くと、ゴールデンゲート、フィッシャマンズワーフなどを回った。フィッシャマンズワーフで昼食をとった。クラムチャウダーにダンジネスクラブというかにのご馳走である。かには形は小さかったが、非常に美味、私はもっと沢山食べたいと思った。
 翌日は、コンピューターハードの世界的なメーカーの
HEWLETT PACKARDを視察した。社内は全面的な禁煙で、玄関の入り口で金髪のOLと一緒に喫煙。わが国では見慣れない風景である。
 視察のスタートの朝食会の挨拶の中で、昔、私が初めてみたアメリカの野球チーム、サンフランシスコジャイアンツのオドール監督や日本人初の大リーガーの村上さんのことにふれると、同社の幹部は良く覚えていて、会場は和らいだ。
 企業視察が終わると、自由時間。
 私は一人で名物のケーブルカーに乗って、フィシャーマンズワーフに行く。
 途中アンデス地方の人たちがストリートミュージックを奏でていた。中南米音楽の澄み切った音がサンフランシスコの青い空とよくマッチしていた。
 フィシャーマンズワーフの路上の出店で蟹を買って新聞紙に包んだまま腹いっぱい食べた。
 サンランシスコは、不思議な街だ。ホームレスも全米一、ゲイも一番進んでいて、家々にはホモであることを示すレインボーフラック(虹の旗)がなびき、同姓の結婚が市民に受け入れられていた。
 夜は、チャイナタウンで久しぶりに、紹興酒を飲んで、中華料理に舌つづみ。シスコの夜を満喫。

 翌日、すべての研修の日程を終え、サンフランシスコ空港から休養のためハワイに飛ぶ。
 ハワイは、日本人が多く、アメリカ本土から来ると迫力なし。
 ワイキキの海岸で泳ぐ。
 (このとき、同行者にとってもらった
私と金髪の超ビキニの少女二人との写真を後で見せられ、自分の胸の筋肉のたるみに、私は初めてOLD MANになったことを知り、愕然とする)
 夜は団長招宴で、全員を招き、久しぶりの和食を楽しみ、全員和気藹々のうちに無事帰国した。


  ★ 終わりにかえて 

 
『春爛漫、桜吹雪の下で』のこのシリーズでは、私の役人生活36年のうち8年にわたる地方勤務、1/5に相当する私の生活にまつわることについて書いてきた。
 このシリーズを書きながらいつもー
自分はこれをなぜ書くのかー、―――皆さんに何を訴えようとするのか―――考え、悩んだ。
 もしかして誤解されて、自分の自慢話をしているように読まれはしないか。
 しかし、このレポートは、私の意識の中では、少なくとも私の成功体験を記したものではない。

 御詠歌や念仏に似た黒い海鳴りの三陸の海(宮古)から出てきた若者(私)が中学3年のときに附属中学に転校し、一年の間、皆さんの仲間にしていただいてそこで受けた強烈なカルチャーショック。

 ちっぽけな商人の子供には、偉いお役人をお父さんに持つ皆さん方の生活は光り輝く薔薇色の花園に見えました。

 あの加賀野の附中の校舎やだだっ広い校庭が、授業や放課後の生活が、岩館先生、小田先生、宇部先生、岩淵先生たち先生方の教えが、そして夏の北海道への修学旅行が私の心の中に劣等感や希望や憧れや屈折した複雑な気持を醸成させ、私は知らず知らずのうちに役人になることを決意したのです。

 
だから、生まれ故郷の宮古は、母親の胎内のようなものだとしたら附中は、私にとっては後々の人生のすべてのスタートの原風景なのです。
 やがて、私は役人になりました。そして官僚のあるべき姿を追い求めながら怪物のような官僚機構に挑戦し、見事に弾き飛ばされて敗れたのがこの記録です。

 出世の自慢話しなら本省での生活のほうから書いたでしょう。それに地方の勤務は、事務次官まで上り詰めるようなエリートコースに乗る人は、せいぜい3箇所が限度。
 弾よけの役目をさせられた私のように6箇所じゃお話になりません。

 
それじゃあ、無様な失敗物語をなぜ書いたか。
 (まさか筆者が受けた心の傷を癒すためではないでしょうね。断然ありません。在京の附中会には癒しを専ら求めて本当に長い間参加しましたが、同会では今回のドキュメントで書いたような話は誰にも一切しておりません。それに小説を書くことだって私が負ったキズを癒すためだけではないんですよ。上手く言えないけど、不遜ですが、何か光り輝くようなものを人々の心の中にプレゼントできないかと思って・・・)


 
それは、私にこのような失敗物語を味合わせてくれた原風景の舞台を提供して下さった皆さんに対する私の感謝の気持ちからなんですよ。フィードバックといいましょうか。
 
失敗とは言ってもこの人生、結構面白かったからね。
 
 でもねえ。面白い小説には、
『起承転結』が必要だというじゃないですか。
 このシリーズは、断じて小説ではないですけど、それじゃあここで
『転』といってみますか。

 私は、附属に転校するとき、山本弥之助氏のご紹介を受け、もう一人の転校希望者(彼も宮古一中、父君が盛岡の某大学の教授)と試験を競って入学させてもらったのである。
 (このとき私一人が教員室のようなところで、いきなり試験を受けた。岩館先生が戸棚から手当たり次第に試験の問題用紙を引っ張り出してきては私を試したが、このとき私は、すごく充実していて、問題には簡単に対応出来た。このときの光景が目に浮かぶようである。)
 だから私の附属入学の恩人は、山本さんだが、同氏には附属、盛岡一高時代と大変お世話になった。
 この山本さんの背中を見ながら私は青春時代を盛岡で過ごしたわけだが、この方は、戦前の岩手県警察部長(今の県警本部長)、そこでいつの間にか知らず知らずのうちに役人になるといった私の目標は附中卒業後、大卒時には『警察庁』に絞られていった。

 何のために『警察庁』?
 公安以外なら何でも、特に『暴力団の山口組を撲滅するため』
 当時、安保闘争が華やかだった時代で、警察官は国民の一部から対学生運動との兼ね合いから嫌がられている時代だった。
 当時の私の可愛いガールフレンドなんかは、
 「ポリ公は、嫌。目つきが悪い。あなたが警察に行くならあなたとは絶交よ・・・」
 「いや、警察のキャリアーの最高幹部は、皆穏やか顔をしていてねえ。商社や銀行の社長や頭取よりもずっと品格がいいんだよ―――」
 何度私が説得しても
 「・・・嫌、バイバイよ・・・」
 と言って聞かない。

 
私は、人生の最高の勝負のところで『インフレーション』で失敗した。
 
(ハイパーインフレのときにでも銀行にせっせと溜め込んで置いたお金をそのまま寝かせておいて失敗でもしたの?)
 (そうじゃないんですよ。実は・・・)

 当時、警察のキャリアーになるためには、『警察三級職試験』に合格しなければならなかった。この試験が一般の上級職の試験よりもずっと難しい。
 そこで、この試験に挑戦しようとしていた私は、試験日の前日不得意科目の『行政法』と『経済原論』に山をかけるために参考書をぱらぱらと夜遅くまでめくっていた。
 『行政法』は田中二郎の本を丸暗記、経済のほうは、慶応の千種義人の『経済原論』をぺらぺらめくって、出題されそうな問題に山をかけて、
『インフレーション』が書いてあったページはもう分かっているからと思って飛ばして・・・・・
 それが論文試験で、『有効需要』という問題と一緒に出題されたんですよ。「
インフレーションについて述べよ」とね。有効需要は山が当たったけどインフレのほうは2,3行しかかけないんですよ。
 結局、この失敗で、学科試験の合格者、30人の中には入ったけど、最終合格に有利な10番以内には入れなかったんですよ。
 『インフレーション』という問題が出来ていれば、間違いなく3番以内には入っていたでしょう。
 後は、身体検査と集団討論で頑張るしかない。
 私は、あせりました。
 身体検査は、皇居の中の皇宮警察の施設で行われました。
 越中褌一丁で、受験生が3人並んで伸びたりちじんだりの運動をするんですよ。私は、気合が入っていて、褌に、墨で必勝と書いたりして、横で警察庁の若い女の係員が見てて、かがむと褌が緩んで中が見えるんですよ・・・そんなことはもうどうでも良い。
 そのとき私の隣で試験を受けていたのが関口祐弘氏(故人、拳銃で撃たれた国松孝次警察庁長官の次の長官)であった。

 そして、集団討論。司会は、当時警察庁の官房長だった後藤田正晴氏(カミソリの後藤田といわれた官僚、後で内閣官房長官)
 私は、郷土出身のある代議士から同氏によろしくとの電話をかけてもらっていた。(そのとき後藤田氏はこういったと言う。たとえ池田首相に頼まれてもうんとはいえませんねと)

 討論のメンバーは1チーム6人、これを警察庁の江口次長、新井警務局長たちが取り巻いて採点していた。彼らはまるで商社の取締役のような品の良い顔をしていた。
討論が始まると、後藤田氏はまず一番先に私を名指しした。
「君の今一番関心を持っていることは何ですか。それを3分ぐらいにまとめていってみてください」
確か後藤田氏の言い方はこうだったと思う。
私は、当時大きく報道されていた『アメリカのミツシッピ州立大学の州警察の黒人学生の銃殺事件』について発言し、アメリカの民主主義に大きな疑問符ありと主張した。
 各人の発表が終わると討論が始まる。アメリカの民主主義を非難した私に反論が集中した。
 5人の東大法学部対1人の新橋大学のものすごい論戦が始まった。私は、盛一の弁論部のとき県下の討論大会で二高かどこかの女学生を論破して泣かせたことがあり、討論は得意中の得意であった。
 後藤田氏をはじめ警察庁の幹部は、私の超ドラスティックな議論に目を白黒、メガネをはずして私の顔をじっと見る幹部もいた。
 (受験生の吉田のような者にわが国の治安を任せられるかという顔をして)
 結局、合格者は、10人。そのほとんどが上級職に合格しており、中にはさらに司法試験に合格したものも数人いた。
 
私は、不合格。これが私の運命の大きな分かれ道であった。
 (しかし、人生どうなるか分からない。このとき合格した人のうち一人が隅田川に飛び込んで自殺し、東大紛争のときに本富士警察暑長として指揮を執った某人は、当時の福田首相の仲人でH銀行のK一族の娘と結婚し、警察を離れたがH銀行はとっくにつぶれている)

 そして、附中を卒業するときに文集に書いたような赤い糸に引かれて労働省に入省した。
 学閥、門閥、閨閥、政治家との関係を断ち切り、真に実力一本でトップに飛び出せるような官僚世界を目指して、36年間もがいたが、遂に力尽きて敗れた。
 今振り返ってみると、私が国民の皆さんの目線に立ち、わが家族のことを大切にし、出世(どうせ事務次官になってもたいしたことはないと思って)よりも自分の座標軸で生きようと思ったときから、出世街道からずれる度合いが益々大きくなったように思う。

 
―――これまた私の人生。
 幸せなんて、一人ひとりの欲求が満たされたときにその人だけが感ずるオンリーワンのものであり、幸せを一般的に定義したり、計測したり、他人と比較することは、実にナンセンスである。

 
 
 
札幌の藤川さん! お元気ですか!
 
貴女のおうちの星置からは、私が『カジカ』をよく釣りにいった小樽の『銭函』が見えますか?
 桜前線ももうゴールデンウィークには北海道に到着したでしょう。
 お花見は、楽しくやりましたか?
 
 北海道は、春になると桜も梅もつつじもチューリップも一緒に咲くんですよね・・・・・・
 貴女のいらっしゃる札幌の人々には、
よりもこれから咲く、紫と白のリラ・・ライラックの花のほうが待どうしいですよね――――――

 
長いこと、私の拙いドキュメントにお付き合いいただき有り難うございました。
 今度は、本業(小説)に戻って、一段落し機会があれば次は本丸の『霞ヶ関』のことでも書きますか・・・・・・・
(春爛漫、桜吹雪の下で 了 )

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