ノンジャンル No.068

投稿日 2006/06/01  [PART2] 先輩
寄稿者 吉田一彦

 私は、労働省では、歴代の事務次官10数人に仕えているが、私が尊敬している次官はそのうちの2〜3人に絞られる。
 その中の一人
K氏は、私が最も尊敬している次官である(私には生来悪い癖があって、人間的に尊敬できない人とはあまり口をきかない。だからもともと多弁な私は、ほとんどの上司からは、(彼は東北人だから無口なのだろう―――)と思われている)。
 ゴマもすらず、政治家との癒着もなく、公私のけじめもはっきりしていて、親分子分の関係、つまり閥も作らず、仕事一本やりで次官になった人はこの人以外には他にはいないだろう。

 同氏が部長時代に、私は直接の部下として仕え、一緒に仕事をしたことがある。それは
『労働安全衛生法』を作るという仕事であった。
 当時、労働省は、労働三法に次ぐこの大部な法律を作るために、労働省きってのホープと目されていた同氏を担当の部長に据えたのである。

 この法律は、職場で発生する怪我や業務と関連した病気すなわち労働災害を防止するための仕組みを定める法律で、これまでは労働基準法の中で数カ条の規定があり、細かいことは無慮3000条といわれた労働省令以下の下位の法制で定められていた。
 この時代は、一年に労働災害で死亡する人が6000人近くもおり、怪我や病気の人を含めると相当の数にのぼっており大変問題視されていた。
 また、法律的にも罰則のかかる構成要件(タートベシュタンド)が省令で規定されており、デュープロセスの観点からもはなはだ問題視されていた。
 そこで、わが国でも労働災害を防止するための総合的な新法を制定しようということになったのである(この方針は、ドンぴしゃり成功したといえよう。この法律が出来た翌年の昭和48年から労働災害は大幅に減少し、最近では年間の死亡者は1500人程度まで減少している)。

 K氏に話を戻すと、特にこの方は総評など労働組合対策に強く、この法律に関係する組合内部の情報(組合の動きが法律制定の帰趨を握る要因の一つ)を取るのは、神業のごとく上手であり私も驚いていた。
 私がもっとも気合が入っていた働き盛りの頃、この部長の下で、法規係長として私の生涯に残るコアーの仕事をさせられたのである。

 法律制定の準備は、この部長が来る3年ほど前から着々と進めており、私どもは基本法をベースに6本の姉妹法を準備していた。
(この仕事のため毎日大手町(当時労働省は大手町にあった)の役所を出るのは午前1時。国電もなくなり、タクシーに部下と相乗り(上司は、一切残業なし)、自宅に順々におろしながら当時私の官舎のあった東久留米につくのは午前2時過ぎ。それから風呂に入って、出版社に頼まれた法令集の監修の仕事をやり、4時睡眠。6時起床、どこかの役所のように昼まで出勤すればよいというのではなく、8時30分までに役所に出勤、周りでは、疲労で倒れる若い者もいたが、私は、新宿のキャバレーで部下のたまったマグマを適当に発散させながらモラールを維持していった。今考えると私自身よくもったと思う。これも宮古で子供の頃、野球、水泳、リヤカーでの魚運びで鍛えた体力と附属で工藤先生に鍛えられ強靭な体力を持っていたお陰か。)
 K部長に就任早々、7本の法律体系を説明すると、NO。
(これでは、各省折衝、国会対策が持たない)
一本の法律にまとめようということになった。
 もともとこの仕事の最高の責任者である歴代の労働基準局長は、この法律の制定に逃げ腰であった。失敗する公算が大であるからである。
 黙っていれば、もう一つ上のポストまでいけるかもしれない―――官僚のもっとも悪い点である。
 私と、上司の課長は、法律制定の必要性を説いた『青表紙の本』、ブルーペーパーを作って局長に見せたら、(このペパーはどこにもまだ配っていないだろうなー)と局長が言うのに、当時の保谷という課長は、(事務次官以下省議メンバーには全部配って説明しました)としゃしゃと平気な顔をして答え、局長は、顔を真っ赤にして激怒したが、これで勝負あった。この状況になるのを狙っていた課長と私の作戦勝ちであった。
 これを契機に、労働省内部の法律制定の機運は、ようやく一気に盛り上がり、K部長の就任となったのである。
 私に言わせれば、
保谷という課長は、この法律の制定の第一の功労者であると思うが、彼は東大の経済ということで、必ずしも法律には強くなかったので、立法作業に移った時点からはこの仕事からはずされた。
 
 さて、一本の法律に組みなおす仕事は大変であった。私の部下は、当初は3人。しかも新米ばかり。
 この法律は、技術的な法律で難解なので、新米には無理、この法体系をマスターするには頭のいい職員でも3月、東大の法学部をでた者でも頭の悪い職員は6ヶ月かかる。
 私は、新しい条文を一条ずつ一枚の紙に書いていつでも自由に組み替えがきくようにした。何しろワープロもない時代である。
私が書いた枚数は、床から天井の梁につくぐらいだったろう。
 (本当の話、私は、毎日、5時を過ぎると、ぐったり疲れて、神田の寿司屋からつまみとすしを出前してもらい、日本酒を5合飲みながらややこしい条文を書いた。
 この時代は、時間外には役所でもよく酒を飲み、本省の役人は酒が強くなければ、もたない時代であった。
 とは言っても2日で一升開けられたのでは、財布を預かる予算の課長補佐もたまったものではない。一度私は予算の補佐に少し酒を控えるように言われたことがあるが、何しろ肉体労働の人夫と同じで飲まなければ、頭がうまく動かない。そこでK部長に直訴すると課長補佐が部長に即刻呼ばれて
(吉田君には、好きなように飲ませてやれよ)といわれ、吃驚して私のところに飛んできて態度も一変、課長補佐曰く(銘柄は何にしましょうか?)私はすぐにこの頃愛飲していた(剣菱をお願いします)といったことを覚えている。
  一息入れ車座になり、好きな女性のプロフィールでも自慢しながらビール党の部下と数種類の刺身のつまみを食べながらわいわいやっていると、労働省の法律の実務的な責任者である官房の総務課の事務官が見回りに来て
(君らいつも酒盛りばかりやっているけど、本当に法律は大丈夫なんだろうなあ)と心配しながら帰っていった。
 この人は、不思議にいつも私達が酒盛りをしているときにばかりきて、仕事をしているのを見たことがないので心配ばかりしていたのであろう。
 そういった私流の仕事運びと部下の教育の仕方を周りの人達は
『吉田学校』と冷やかした。
 部長や課長や補佐は5時になるとすぐに帰宅するのだが、私はそのように難しい仕事を全面的に任されたほうが益々気合が入った。
 この時代には、さらに家に帰ると秋田から送ってくる高清水を晩酌で三合飲んでおり、この時期に集中して一生分の日本酒を飲んだような気がして、今ではよほどのことがない限り日本酒は飲まない)
  
 朝、K部長は、出勤してくると私のところに来て、
 『丸投げの下請けを禁止する規定を作れないか?』といった類の宿題を出すのである。
 そして、夕方になると『出来たか』、まことに気が早いのである。
 『そういう条文は作れません』というと、この人は人が変わったように厳しい目をしてその根拠となる説明を求めるのである。
 
ここでも附属時代の山舘先生の『ぎょろ目』が活躍し、部長から目をそらしてはこちらの負け。益々攻め込まれるのである。
 私は、もしかしたら東大法学部卒の誰かに係長のポストを途中で交代させられるのではないかと心配していたが、
この部長は最後まで自分を使ってくれた。
 私は、このことを本当に有難く思い、この時代がおそらく役人生活の中でももっとも充実し、頑張った時期ではなかったかと思っている。
 
 役人は、偉くなると、外から依頼された文章は、代筆を部下にさせるのが通例であるが、この人は全部自分で自ら書いていた。
 私が知る限り、唯一の例外は、自民党の機関紙に掲載されたこの法律の概要の記事だけではないだろうか。私がゴーストライターを勤めたのである。私は嬉しかった。
 この法律には、ジョイントベンチャーやリースなどの規制、健康保持対策など10年先を見越した新しい規定や仕組みが沢山規定された。
 
 最終段階で、技官による指導色の強いこの法律の制定に当初消極的だった省内の一派―――強力な労働基準監督官グループを私は決死の覚悟で真正面から蹴散らして閣議請議への決済へと進むのである。
  
 暇があったら、皆さんにも一度六法全書でも開いて、ちらっとみて欲しいんだが、この法律は、122条の条文からなっている。
 私が書いた原案は、当初160条ぐらいあったが、40条は自民党の某先生の反対で削られた。
 
 行政法としては、きわめて難解な法律の一つで学者でもこれを専門とする人は当初は見当たらなかった。
(労働基準法で規定されていた時代も有斐閣の法律学全集を見ても東大の有泉教授はこの問題、安全衛生の問題はたった1ページしか記述してない。
 私は、有泉教授の編著で有斐閣から本を出したことがあるが、共同執筆者がちょんぼをやり、絶版になった。私は、同書の印税で一生小使には不自由しないと喜んでいたのだが。
 私のこの時代の部下は、この法律の専門家として今ある私大の教授をやっている。私もこの道を進むことも出来たが、大学の先生というのは柄に合わず、めんどうくさいのでやめた)
 
 さて、少し横道にそれたが、
この法律が出来るかどうかの最大の決め手は各省との折衝如何にかかっていた。
 何しろ、宮内庁以外のすべての省庁と関係があって、法律の原案を示して全部OKをとらなければならないのである。
 
 法律を作るときには、政府内では、次官会議、閣議、党では自民党の政調会、総務会のOKを取って始めて国会に政府案として出せるのである。
  
 次官会議に出すには、事前に各省庁との接衝でOKを取らなければならない。
 各省からは沢山の意見が出された・・・・・・・
 例えば、自省の権限であるから(―――〇条から〇条までは削除されたい)、わが役所の権限にふれるから(〇条は以下のように修正すべし―――)、わが省と共管にすべし、事前にわが大臣の意見を聞くべしなどなど・・・・・・・
 これらの意見に対し、(このように処理します―――)と何度も意見のすり合わせをするのである。
 通産省のように、最初の入り口は穏やか、ソフトだが、接衝すればするほど難しくなっていく省もあれば、最初は、沢山の強烈な意見を出すけど、説明でどんどん後退していく省もあるなどそれぞれの省の体質、担当者の力量によって異なるのである。
 一番、上手な処理の仕方は、説明だけで納得してもらうこと、次は
『覚書』で処理すること。問題の大きさにもよるが一番困るのが条文を削ったり修正したりすること。
 いちいち処理の経過、話し合いの結末を上司に説明し、OKをもらわなければならない。この作業を通じて上司から力量を評価されるのである。いわばこの各省折衝は、時間の制限されたヤクザの世界における戦いみたいなものである。
 私は、この戦いが好きであった。頭の勝負、度胸の勝負、駆け引きの勝負、弁術の勝負、時には夜眠られないほど悩むこともあるけど、スリルがあって面白いのである。
 
 各省間で調整がつかないと、問題を抱える省の事務次官は、次官会議に出れないのである。もし出ても話し合いの相手の省の次官が(この案件はまだ調整が不十分です)と発言すれば、その案件は、次官会議を通らず、その場面を惹起した課長や補佐は間違いなく左遷。
 
 この各省折衝の権限が安全衛生法を制定するときには、ほとんど私に任されたのです。それはそうでしょう、いちいち部長や局長、次官に説明していたのでは前に進みませんから。
 
『覚書』は、いくら乱発してもよろしい。法案に傷をつけなければよろしい。
 私が各省と交わした覚書の綴りの厚さは、10センチは超えたでしょう。中には前に交わした覚書を破って謝罪する覚書というのもあります。
 この各省折衝というのは、相手の省と同じ位同士がやって話がつかないときには、段々に地位をあげて、最後は局長同士がやるのですが、私は、このときは、上司は補佐どまりで、部長や局長を折衝に出したことはありません。
出来るだけ自分のところで食い止めることをモットーとしていましたから。
 ところがです、変なところで変な問題が出ました。それは厚生省です。その折衝は、私がやり、厚生省は当初法案に対する色んな意見を出してきましたが、私が縷々説明し、最終的には納得してもらって「意見なし」で処理を終わりました。
 しかし、
これが若き日の橋本龍太郎元総理によって引っ掻き回されたのである。
 当時、橋本氏は、リーゼントの頭をピカピカにポマードで光らせて、貴公子然とし、厚生省の自民党社会部会の顔であった。
 その部会で、この法案が話題になった。
 (厚生省は、この法案にどんな意見を出したの?)
 同議員に聞かれた。もう既に私の説明で、処理が終わっているのである。さあ大変。紛糾した。大臣が役所に戻ると、事務次官や幹部を集めて一日がかりで橋本議員への対応策を練った。
 
(悪いけれども、かくかくの事情でもう一度折衝をやり直させてください)
 厚生省の幹部がわが省の幹部に泣きこんできた。
 
(ふざけるな!!!)
 それを伝え聞いた私は、内心いきまいた。しかし、私自身も折衝では、厚生省の甘い担当者を口で丸め込んだような気がしていたので、少しびくついたが、私の折衝に対する非難の声はどこからも出なかった。
 私は、部長に説得されて自分の主張を引っ込めた。しかし、いまさら条文に手を加えることもできず、厚生省は覚書を交わして橋本代議士を治めた。当時の厚生省の私と折衝をした補佐、係長他2〜3人の職員は左遷されたようである。
 
 さて、何とか内閣法制局の審査(後で触れるが、この審査はすごい)も終わり、政府部内、自民党の一切の手続きをクリアーしてこの法案は政府提出法案として国会に提出された。
 
 国会で大臣、局長が頼りにする分厚い想定問答集3分冊の作成も終わり、私は関連資料を山のように唐草の風呂敷に包み背中に背負って、衆議院の社会労働委員会の審査にのぞんだ。
 衛視が私の変な姿を見て吃驚していたが、私はそれどこではない。風呂敷を開いて、絨毯の上に資料を整理して並べ、私は、政府委員(局長、部長)、説明員(課長)に求められた資料を渡す役である。いかにぴったりの資料を迅速に答弁に立つ人に渡すか、が肝要である。
 国会答弁は、質問が出ても、慣れなので、局長レベルであわてる人はほとんどいないが、課長レベルで度胸のない人は、ここに書いてあると私が指差して教えても、頭が真っ白になって見えない人もいた。
  
 私は、実はこの委員会でのやり取りを見てK部長をさらに尊敬するようになったのである。
 橋本龍太郎議員とK部長がやりあった場面である。
 細かい質問の内容は、忘れたが、渡辺労働基準局長の答弁に橋本議員は納得せず、同じ問題について橋本議員はK部長の答弁を再度求めた。
 
 こういう場合には、位が下の人の答弁に納得いかないので、上の人の答弁を求めることが普通であるが。
 (かって、衆議院の商工委員会で社会党の議員から春闘のことについて質問され、経済企画庁の長官(国務大臣)の答弁に納得できず、同議員から私に再度質問され、私がしめの答弁をやったことがあるが、これはきわめて変則。でも私は痛快であった)
 
 
K部長は、答弁になかなか立たなかった。
「なぜ私の質問に答えないのか!!!」

 橋本議員は、自分の面子がつぶれたと思ったのか、激怒した。
 それでもK部長は立たない。
 私は、そのやり取りの場面があまりにも迫力があったので、今でもよく覚えている。
 しかし、橋本議員が答弁をひつように求めるので、やおらK部長は身体をゆすって答弁席に出て行って
 
「先ほど、労働基準局長が答弁したとうりであります」
 たった一言答えると席に戻った。
 橋本議員は顔を真っ赤にして、すごい目をしてK部長を睨んだ。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このとき以来、このK部長は、すごい人だなあと私は一層尊敬するようになった。

 この方は、最後は事務次官まで自分の実力一本で登りつめ、今は、好きなゴルフをやって悠々自適の生活を送っておられる。
 私も一度、ホームコースの磯子でお手合わせしたことがあるが、全然かなわなかった――――

 しかし、同氏もさすがに年には勝てない。
 安全衛生法の成立25周年の会が、K氏を中心に内輪で開かれたときに、私は欠席した。
 次にどっかの会合で、同氏にあったときに、
『吉田君、こないだの会合にどうしてこなかったんだ!!!』
 この法律を自分のライフワークと誇りに思っている元老次官は大変ご立腹であった。
 
(―――だって昔のことじゃないですか。私はもうそんなことは忘れてしまいましたよ・・・・)
 私は、心の中で、命を削ってまで一緒に戦ったあの日のことをニヒルに笑い飛ばし、K氏の老を悲しんだ。


 この先輩は、確か70歳の時には、勲一等か二等の勲章を辞退してるはずである。
[PART2]完
【 追補 】
  
 私は、後にもう一度この法律の仕事と係わった。この法律『労働安全衛生法』は、今日まで数回改正されているが、昭和52年の「化学物質の有害性の調査」等の新たな制度を導入するための改正のときである。
 このとき、改正案をめぐっての国会審議のときに、化学物質の調査の結果について意見を求められた学識経験者の『秘守義務』をめぐって、紛糾し、改正案の成立がほとんど見込みないものと思われていたが、当時の局長などの辣腕によって奇跡的に改正案は成立した。
このためこの法律を施行するに当たっての政省令の制定が極めて困難視されており、そのためにはこの法律を熟知しているものでなければということになり、担当の課長補佐の候補として私が名指しされたが、私は、(この法律は、前にたっぷり苦労しているので勘弁して欲しい。考えただけでぞっとする)と当時私の上司であった谷口職業安定局の審議官(直接の上司、白井課長はアメリカ出張中で不在)を通じて断ったが、どうしてもということになり押し付けられた。
(私は、不幸なことにこれらの仕事に強いと思われており、平成10年頃に京都の国際会館で『世界じん肺会議』が行われたときにも向かいのプリンスホテルに一週間ほど泊まり込み、下賀茂署との警備の打ち合わせ、当日のデットライン前での大デモ団の左翼弁護士との交渉を通じてデモへの対応をやらされた。こういうことが積み重なって、悲しくも今の心臓の病に繋がっているのだろうと私は思っている)
 というのは、当時、職業病対策をめぐって、新左翼の動きが活発であり、彼らは当面、成田闘争に主力を注いでいたが、
よく労働省の大手町の庁舎に押しかけてきては、今回の法改正の問題など職業病の問題で労働省と交渉し、気に食わないと、交渉担当者の脇の下を新左翼の女性がつついて挑発したり、ベランダの回廊に出ては、鉄棒でガラスを叩き割ったり、大臣室を占拠したりして暴れまくっていた。
 これらの連中が成田の闘争が済めば、今度は主力部隊をこちらの職業病対策に振り向けるとの専らの警察情報であった。
 
 そこで私は、5人の部下職員がこれらの動きに充分対応できるようにするため、まず度胸をつけさせることが肝要だと考えた。
 何しろ彼らは、今まで受験勉強ばかりで、自分のように挫折も知らず、修羅場をくぐったこともない。
そこで私は、当時日本でもっともえげつないといわれていた千葉の船橋のストリップ劇場に連れて行った。案の上二人が途中で貧血みたいに真っ青になり、気持悪くなって劇場の外にでていった(この5人は、その後出世してみな大官になり、現在活躍している)。
 成田の連中の闘争は、それほどではなかったが、法律作成時に各省から、がじがじに覚書を取られており、今問題になっているアスベストの問題など各省との折衝は熾烈を極めたが、期日までに関係の政省令を無事作り上げ、私は北海道庁への異動のため例のしょっぱい川を渡った。

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Presented by Ayako Taguchi