ノンジャンル No.075

投稿日 2006/06/30  [PART6] 旗の台
寄稿者 吉田一彦

 時の労働大臣は、石田博英氏であった。秋田県選出。石橋内閣の内閣官房長官をはじめ労働大臣を6期、運輸大臣を歴任し、自民党でもちょっと毛色の変わった政治家といわれていた。
 また、石田氏は、秋田県の大館にローズガーデンを遺すなど薔薇愛好家としても有名である。
 特に労相時代には、三井三池の大争議を手がけ、
『石田労政』として労働省の中でも歴代の大臣の中で官僚達にひときわ別格の扱いをうけていた。
 この石田大臣の佐藤秘書官(秘書官は、役人の中でも超エリートコース。彼は[PART3]で登場した内閣法制局の審査で並び大名を勤めてもらった先輩)からある日電話があった。
「おい、吉田君、今晩あいてるか?」
「あいてますよ、何ですか?」
「今晩、大臣が記者クラブの連中にご馳走しようとして、旗の台のお宅で準備していたら、〇〇事件の取材でクラブの連中が急にいけなくなって、パーになってね。せっかく大臣が心を込めて集めていたご馳走が無駄になるので、大臣がそれなら秋田にゆかりのある労働省の人達を呼んでご馳走しようということになってねえ。君も来ないか」
 佐藤秘書官とは若い時代から接触があったので、私の女房が秋田出身だということは前から知っている。
(女房の実家は、秋田市で、数年前まで料亭をやっており、労働省の課長以上の人達が秋田に出張すると、私が頼んだわけでもないのに、昔は知事や部長に連れられて、我が家に行っているので労働省の幹部はほとんど私が秋田に縁があることは知っている(中には私が秋田県出身者だと思っている人もいる)。
「夕べ、君の奥さんのところに行ってきたよ」秋田に出張した幹部は大抵声をかけてくれるが、私は、「それはどうも。ご贔屓にしていただいて、有り難うございます」と私はビジネスライクに答えることにしている。気配りをして、お土産に「稲庭うどん」の一箱でも持たせれば・・・・私の出世にもあるいはプラスにもなるのであろうが、女房の父親は、そんなことが大嫌いな人であった。太閤秀吉や水戸光圀も絡んで没落と再興を繰り返した祖先にまつわる出自を自分の奥さんや子供達にも内緒にしておき、あるとき秋田魁新報(岩手の岩手日報に相当)にすっぱ抜かれて、それまで何も知らなかった奥さんも飛び上がってサプライズしたというご人である)

「秘書官、何人ぐらい行くんですか?まさか僕だけではないでしょうね」
 佐藤秘書官は、日ごろから調子のいい人で、
「まあ5〜6人はいくと思うよ」
 というので、佐藤さんには日ごろから世話になってもいるし、顔も立てなければと思って
「それじゃあいきましょう」
 と気軽に答えた。
「それじゃ5時に大臣の車が1Fの玄関から私邸に向かうので、それに乗ってきてくれ。待ってるよ」
 と言って電話が切れた。
 
 5時になって、労働省の1Fの玄関に行くと大臣の車が止まっていた。スリーナンバーのプレジデントの大臣車はすぐに分かった。
 運転手さんに声をかけるとさすがに話は通じていた。
 ドアを開けてくれたので、車に乗ったら、車はすぐに動いた。
「ちょっと待ってくださいよ。運転手さん。まだ4〜5人乗るんじゃないんですか?」
「いや、あなた一人のようですよ。あとの人に声をかけたら、皆しり込みして、辞退し、いらっしゃらないようですよ」
 課長補佐(当時)の私よりも位が上の人が秋田県の関係者にはいるはずだけれど。私は佐藤秘書官にはめられたと思い、ティッシュで鼻をかんで、シートの前にぶら下がっていた魚籠のような竹の籠に棄てた。
 私は、ここまで来ては逃げられないと思い諦めて、車窓の景色を見ていた。
 私は石田大臣に直接お会いするのは初めてである。
 石田大臣は、テレビや写真で見るように体がでかく、顔も吉田 茂のように特徴があって、銀縁の細いめがねをかけ、人相もごつく怖い感じである。
 この人と1対1で対面するのは、相当の度胸が必要だ。
 
 車は、旗の台の瀟洒な一軒の家の前に止まった。大きな家ではないが、洒落た家であった。
 運転手さんがドアを開けてくれて、私は車から降り、家に入ると、お手伝いさんが出迎えてくれて、私を応接間に案内してくれた。
 20人ぐらいは楽に入る、洒落た調度や家具の並んだ大きな応接間で、油絵が沢山飾ってあった。とにかく私が今まで入ったことのないようなしゃれた部屋であった。きょろきょろ見ていると、応接セットのテーブルの上には沢山の料理が並べてあった。
 私が落ち着かずなんとなく腰を浮かして座っていると、石田大臣が入ってきた。私は立ち上がり、挨拶した。
「よく来てくれたね―――」
 大臣は笑顔を見せて私を迎えてくれた。
 地味なスポーツシャツの普段着で、秋田で言うドンブグ(宮古弁の魚のことではない。ちゃんちゃんこ)を着ているので外で見るおしゃれでダンデーな大臣のイメージはなく、ただの東北のおじいさんに私には見えた。
 まもなくフアッションモデルのような飛び切りスタイル抜群の美女達2〜3人が料理をもって入ってきた。
 石田大臣は、ミスユニバースや美人コンテストにも関係しており、もう少し政治に身を入れればもっと大物になるのにと一部の週刊誌などでささやかれていた。
 多分この日は、顔見知りのモデル達を沢山呼んで新聞記者たちにサービスしようと考えたのであろうか。
 私は、酒が入ると、相手が誰であろうと気後れしないようになる。
 大臣とプロ野球のこととか、秋田のこととか、さしさわりのない雑談をしながら料理をいただいた。
 鯛は四国から、伊勢えびは伊豆から、太くて柔らかいぬるぬるした蕨は、地元秋田から・・・・今日のためにわざわざ沢山の各地の名産を取り寄せたようである。すべての料理が美味しく、さすがにグルメと評判の大臣である。
 大臣と二人きり、向かい合って寄せ鍋をつついでお酒を飲んでいると、突然労働省の石井官房長と松井総務課長が応接室に入ってきて、くだけた態度で大臣と向かい合って親しそうにお酒を飲んでいる私を見て吃驚して飛び上がった。
 「何で君がここにいるんだ?」
 官房長が私に耳元で質問した。どうやら佐藤秘書官から何も聞いていないようだ。
 二人の大官は、大臣の前では可哀想なほど直立不動で、極度に緊張していた。
 私が官房長に答えようとすると、大臣がさえぎって、
「吉田君のお父さんには、私は、秋田で大変お世話になっていてね・・・・・」
 大臣がこういうと、二人の大官は、それ以上は何も言わず、2言3言大臣に今日の国会の日程を説明すると、お酒も飲まず室を出て行った。
 美人のおねえさん達に注がれお酒をほいほい飲んで私も少し酔った。
 6時ごろになって、大臣が腕時計を見て時間を確かめていたが、
何を思ったか
「吉田君、この時計はね、この間ソ連に行ったときにブレジネフからプレゼントされたものだよ」
 と言って時計を見せてくれた。
 金無垢の薄いプレーンな何の変哲もないものであったが端整で品格があり、メーカーを聞くのを私はつい忘れたが、私の見たところでは、『白鳥の湖』などを作曲したピョートル・チャイコフスキーやトルストイなどが愛用したといわれる「パティックフィリップ」によく似ていた(ブレジネフは西洋のブランド好きだと聞いている)。
 私のつたない記憶によれば、いつだったか鈴木善幸農相が日ソ漁業交渉で硬直状態になったときに、ブレジネフと親交の深い石田先生が打開のためにソ連に行ったのをニースで見たような気がするが、そのときにでもプレゼントされたのかなあと私は自分勝手に想像してみたりした。
 
 大臣は、驚いたことに寄せ鍋に最後日本そばを入れて食べるのがすきとのことで、そばを一生懸命食べておられた。
 そばを食べ終わると大臣は、
「それじゃあ、これから国会にいくから・・・」
 と言ってブランデーグラスのブランデーを一気にぐっと飲むと、大きな声で家人に
「おい、二番目にいい、モーニングを出しておいてくれ。それから、テレビの水戸黄門をビデオに入れておいてくれ」
 と命じた。
「じゃあ、吉田君、ゆっくりしていってくれ」
と言って室を出て行かれた。
 私もそれを合図にトイレに立った。トイレの中にも、素敵な油絵がかけてあった。
 こんな絵を私の部屋にもかけたいものだと私は思った。
 それからモデルの女性達を相手に少し飲んで、大臣の私邸を後にし、東急大井町線の旗の台から電車に乗って自宅に帰った。

 翌日、労働省で石井官房長に呼ばれた。また何かいやみを言われるなと思いながら官房長室に入っていくと、福島出身の官房長は、
「吉田君、大臣が言っていたよ。君の秋田のお父さんは秋田では、大変な名士だってね。大臣が大変お世話になっているって言っていたよ」
(おかしいな、親父は石田先生とはあまり親交がないはずなのに・・・・)
と私は思ったので、
「そうですか、うちの親父は、単なる料理屋の親父ですよ―――」
というと官房長は
「大臣からいろいろ聞いたけど・・・・そうでもないようだな」
 おそらく石田大臣は、例の魁の新聞を読んで、親父の出自を知っているのかなと思った。
 親父をはじめ秋田や私の家族は、出自を云々されるのを嫌がるので、
「そうですか―――」
 とにこりともせず、無愛想に答えて、私は官房長室を後にした。
 官房長も石田大臣の手前せっかく好意をもって呼んだのにと思っているのだろう、釈然としない顔つきをしていた。

 以上は、私の
『世渡り下手』を象徴するような典型的なエピソードだが、秋田の親父は人の手を借りて世の中に出ることを極度に嫌う人だから多分私の身の処し方で満足だろうと私は思っている。
 
(後記)
 
 労働省創立〇〇年の記念式典が丸の内のパレスホテルで開かれた。課長以上の現職の職員や主なOBを前にして、
中曽根総理大臣が祝意を述べた。
「三井三池炭鉱の大争議のときは、今は亡き石田先生がご活躍され・・・」
といったくだりがあった。
 そのとき参加者の一番前の列に、
政治家を引退されていた石田博英先生が立っていた。一瞬会場がどよめいた。
(中曽根さんのような頭脳明晰な方でもこんな間違いをすることもあるのか)と私が思っていると、さすがに中曽根総理も気が付かれ、挨拶を巧みに修正された。
 
 石田博英先生がご逝去されたのは、1993年10月14日である。
[PART6]完

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