ノンジャンル No.077

投稿日 2006/07/08  [PART2] 先輩(2)
寄稿者 吉田一彦

 PART2『先輩』で書いた橋本元総理の訃報を聞いて、その文章を読み直していたら、私の人生を決定した一人とも言える大事な先輩を忘れていたことに気がついた。
 これだから、オールドマンは困る。若いときは記憶が直接的に繋がってずるずると出てくるが、年をとると散発的にしか、記憶
は出てこない。
 その先輩の名前は、山田 譲氏である。『先輩』で書いたK氏が畏敬の先輩であるとすれば、この方は、私にとっては、親しみを身近に感ずる先輩である。
 
 私は、この方とは、一度目に本省の労政局労政課に配属されたときに初めて会った(労政課は二度目は課長のとき)。
 山田さんは、自治省の昭和26年の採用で、その後労働省に移籍し、その当時は労政課で課長補佐をしておられた。私はその直属の部下になったのである。
 山田さんは、普段は仕事はあまりしないで、毎朝、ゆっくりと出勤され、机にでんと座り、大きく新聞を広げて読んでおられ、
読み終わると、これまたあまり仕事をしない隣の係長殿(この人は、最後は本省の局長で退官、その後東京のN区長選に出て2度落選)
とその日新聞に出ていた政治的なイシューをめぐって大議論が始まるのである。
 つまり議論好きの係長(当時労政課は課長、補佐、係長とも東大法学部出身)と天下国家を論ずるのである。
 私も大学では、専攻の法律の講義はサボり、政治学の講義ばかりを盗み聞きしていたほどの政治好きであったので、議論に参加したいのだが、何しろ課長が、私だけを頼り、仕事をどんどんやらせるものだからそういうゆとりもなく、議論に耳をそばたてながら心の中でいつも(議論もいいけど、たまには手伝ってくれよ・・・)とひいひい泣いていた。
 そういう私の気持を察していたのか、山田さんは5時近くになると、お酒のあまり飲めない係長は誘わずに、
「おい、吉田君、これから銀座に飲みにいくか!!」
と私をよく誘ってくれて二人で銀座のバーかクラブに行くことがしばしばであった。
 昔のことであったから勘定は、役所のつけ、私はたまに会計担当の課長補佐(ノンキャリア)に呼ばれて、
「山田さんとあまり銀座に行くな」
と叱られるが、私はいつもこの補佐に
「私は、山田さんに誘われて付いていくだけですから私に言わずに山田さんに直接言ってくださいよ」
と跳ね返していた。この補佐は、面と向かって山田さんに「銀座・・・」はいえないのである。
 銀座に行くと、夜遅くまで徹底して飲んだ。私も大酒のみだが、山田さんはそれに輪をかけた酒豪である。
 この人は、いつも酔うと、気宇壮大になり、
「私は、京都の三高時代に割り当てで東大の法学部にいやいやながら行かされたが、本当は兄貴のように京大の哲学に行きたかったんだ・・・・」ということと、
「俺は、そのうち役人を辞めて、社会党から国会議員に出るんだ」
と喚くのが通例であった。
 そんなときには私もその話に便乗して
「それじゃあ、私も自民党から出て、日本の政治のレベルアップのために一緒に戦いましょう」
と応酬して勝手に盛り上がっていた。
 山田さんの話は、いつも冗談だとばかり思っていたが、私の方は、その頃は真剣に政治家という職業に魅力を感じていたが、後になって政治家の実態が段々に分かるようになると、妻の実家の根強い反対もあったが、熱も冷めていった。
 政治家云々はともかくとして、山田さんが「社会党から」というのは役人でありながらと思われるであろうが、大体この人の考え方、生き方からすれば、不自然ではないと私は考えていた。
 この人は、昭和27年5月1日の血のメーデー事件にはデモに参加して厳しい修羅場に合っているようだし、東大を卒業してから自分の生まれ故郷の信州諏訪の山奥に入り中学校の先生をしてから公務員試験を取って、自治省に入り、最初に配属されたのが、北海道庁の労政課(私も後に勤務したところであり、これも私と何かの縁)であった。
 それから東京に戻り、数年して秋田県庁の人事課長となり、私の女房の実家の料亭によく飲みに行って、親父とも親しくなり、秋田に2〜3年いて今の労働省のポストに異動してきて私と縁が出来たのである。
 そうした頃、山田さんが秋田に出張し、女房の実家に久しぶりに顔を出したら、親父から「誰か労働省にいい人がいれば娘に・・・」と頼まれ、私が不幸にも網に引っかかったという次第である。
 私も丁度その頃、後のくだりに出てくる宮古の『デビル』に振り回されて、失意のどん底にあったので、諦めて結婚することになり、山田夫妻の仲人で東京のOホテルで式を上げることになった。
 ところが、土壇場になって、私の方の出席者が父の関係で、鈴木善幸さん、山本弥之助さん、山田さんよりも地位がずっと上の労働省の幹部、女房のほうの出席者も秋田の国会議員、現アメリカ大使加藤良三氏の父上などの顔ぶれを見て山田さんが「鈴木先生に頼んだら」と言って強く仲人を辞退されたが、私はそれを断り山田さんに仲人をお願いした。
 
 山田さんは自治省出身ということもあり、労働省では外様であったが、地方では顔が利いた。
 私が地方に転勤になると、山田さんとその頃秋田県庁で部長をしていた自治省で同期の佐々木 満さん(この後参議院議員に転身し、国務大臣、行管長官で引退)の二人が私が頼みもしないのに、自治省同期の人達、鳥取の高崎副知事、新潟の柳沢副知事、北海道の三上副知事などに紹介の手紙を出してくれており、私が着任後副知事室に挨拶に行くと、「山田君が・・・」とか、「満さんが・・・」とかいきなり言われて吃驚した。
 しかし、その後県庁で仕事をする上では大変助かり、感謝していたが、山田さんはともかくとしても、佐々木 満さんには私の方からあまり頭を下げてお礼もせず、相変わらずの世渡りべたということか・・・(一度国会議員の調査視察で北海道で際会したとき先生を引っ張り出して薄野で飲んだことはあったが・・・)
 
 山田さんは、外様のため、労働省ではあまり出世せず、群馬の労働基準局長で終わった。
 その頃、私は本省の職業安定局で課長補佐をやっていたが、ある日局長室で局議のときに時の局長、労働省随一の実力者遠藤政夫氏(この人も後に参議院議員、故人)が緊張した顔で室に飛び込んできて、
「山田君が田辺さんに引っ張り出されて、群馬県の知事選に出るようだ!!」
と政治通の局長が興奮して言い出したが、私は局議メンバーの反応を見ていたがあまり盛り上がらなかった。
 私も山田さんが群馬の知事選に出ることはそのとき初耳だったが、第一山田さんを知っている局議メンバーは半分ぐらいだったし、(勿論遠藤局長は、官房の総務課長のとき私の結婚式で乾杯をしてもらっていて山田さんと私の関係はよく知っている)「田辺さんに引っ張り出されて」と聞いて、当時社会党の書記長の田辺さんなら山田さんは社会党からの出馬で、我々は応援はできないなという冷たい反応だったと私は受け取った。
 結局、山田さんは、群馬県の知事選に出馬し、自民党から出たホテル経営者の清水一郎氏に善戦したが敗れ落選した。
 職業安定局の局議の雰囲気でも象徴されてたように、革新ということもあって、労働省は一切応援せず、労働省の労働組合の全労働だけが大変力になった。
 私はこのとき、山田さんの小学校入学前の次女を一ヶ月ぐらい我が家に引き取り預かった。そのことは、全労働の委員長も知っており、私に感謝していた。
 
 山田さんは、それから次の選挙で、群馬県から社会党で参議院議員に立候補し見事当選した。
 若い頃、銀座で酒を酌み交わしながらわいわい言っていたことが冗談ではなくて本当に実現し私は吃驚した。

 この方には、私は、その後の仕事で随分助けられた。
まず、婦人少年局で女子の機会均等法の国会の根回しをやるときに、社会党の田辺委員長や山口鶴男書記長(この先生も群馬県)を引き合わせてくれたのは山田さんであった。
 それから婦人少年局の組織替えのときに、年少労働課を他局に出す案に同課関係者が猛反対し、その急先鋒が小林あきらの『渡り鳥シリーズ』で有名な衆議院議長の原 健三郎氏、このときも労働省の幹部はびびっていたけれども、過去に年少労働課長をして議員になっても年少労働問題に心血を注いでいた山田さんに押さえてもらった。

 こうして山田さんは、参議院議員として順風満帆の活躍をされ、私たち夫婦も毎年伊香保や水上など群馬県の温泉に招待され、ご馳走になっていた。
 特にわが女房殿は、奥さんに娘のように可愛がられていた。
 
 ところがある日突然、この舞台が暗転したのである。
 国会の参議院法務委員会で 山田議員が中曽根総理に質問中に突然脳梗塞で倒れたのである。
 このニュースは、私も家でテレビで見ていた。
 悪いことにこの日は、山田さんの奥さんと私の女房殿はつるんで二人でどこかに飲みに出かけていた。
 私は、いつもこうだが、行き先は聞いていない。
 電話が山田さんの下の娘さんからかかってきた。
「父が国会で倒れて、虎ノ門病院に運ばれました。おじちゃん、ママの行き先を知りませんか?」
「私もわかりませんが、〇〇ちゃん、あなたタクシーに乗って虎ノ門病院に行きなさい。おじちゃんもすぐに行くから」
 何しろ娘さんは、小学校の6年ぐらいだったかなあ・・私はタクシーで目黒の官舎から虎の門病院に駆けつけた。
 虎ノ門病院に着くと、山田さんの娘さんと女性の秘書、群馬県選出の社会党の田辺先生、山口先生の秘書達がいた。
 普段から顔見知りの山田先生の秘書から私は皆さんに紹介され、挨拶をした。
 「それにしてもこんな大切なときに奥さんはどこにいかれたのでしょうか?連絡が付かず困りましたね。吉田さんの奥さんとご一緒だと聞きましたけど、あなた連絡先が分かりませんか?」
 社会党の山口鶴男書記長の秘書が私に聞いた。
「済みませんけど、私行き先を聞いていなかったもんですから」
「あなたは、自分の女房の管理も出来ないのか!!!」
 私は、秘書に大声で怒鳴られた。
「・・・・・」
 私は、答えようがなかった。
 分からないものは仕方ない。私は、日ごろから女房殿の行動と彼女自身の財産の管理には一切口を出さず、不干渉なのだ。

  幸いにして、山田さんは、一命を取り戻し、右半分の麻痺と口に少し後遺症は残ったものの命には別状がなかった。
  夜遅くまで、娘さんと私は、病院に残っていたが、二人の女房達は夜遅くあたふたと病院に駆けつけてきた。
 酔いも驚きでいっぺんいさめたようだが、二人とも赤い顔をしていた。

 私も政治家山田 譲氏には、革新の良識派として大いに期待し、将来を楽しみにしていたが、今までつきにつきまくっていた先生も健康問題で足をすくわれ、涙を飲んで参議院議員を一期で引退した。

  先生は、その後健康も順調に回復され、少し余裕が出たので、私はご夫妻を宮古に招待した。私は仕事が多忙なためいけなかったので、宮古の親戚の相棒の社長に一切面倒を見てもらった。  
 母もまだ元気だったので、ホテルまで土産を持って挨拶に出向いた。
 山田さんは、三陸海岸の美しさと海産物のご馳走に喜ばれたようで私もよかったと思った。
 
  2〜3年前に山田さんを尊敬するもう一人の先輩E氏(最終は労働省の局長、実家は元灘のつくり酒屋の御曹司)のおごりで、3人で西麻布の小料理屋で飲んだ。
  まず、E氏が俺のうちにこいというので、豪華な南青山のマンション(そばの大きな道路の六本木に向かった左側に富士フィルムの会社がありましたが、田口さんは関係があるかな?)にはいり、私のマンションの価値が買ったときの半分になったと思わずぼやいたらE氏の奥さんが
「あなた、それならまだいいほうよ、この一階のワンフロワーを全部買った銀座にビルを沢山持っている有名な成金の〇〇社長さんなんか、13億が一編に3億に下がったのよ!!」
 私は、慰められた。
  3人の飲み会は、在職中も2〜3度やったことがあり、いつもお土産つき(このときは、大阪の神宗の「塩こぶ」)のE氏のおごりで、今度は私が新橋界隈で設営する約束で別れたが、私は、まだ約束を果たしてない。
 二人とも、かなり味にうるさくて、私が頭に描いている京料理の小料理屋は、階段が長く急で、足の悪い山田さんには無理だからである。

 それにしても山田さんを山本弥之助さんに合わせたかったなあ―――
 いつも私から山本さんの話を聞いて、山田さんは三高の先輩の山本さんに会いたがっていました。
 もっとも私の結婚式でちらっと二人はあっているけど、そのときは山田さんにも余裕がなくて・・・残念なことをしました。

(この間、山本さんの奥様が94歳で天寿を全うされました。
私は、盛岡のお葬式に参列させていただきましたが、式の間中ずっと考えていました。
 私が労働省の職業安定局で庶務課の課長補佐をしていたときに、ご主人が社会党の国会議員であり、当時私が担当してました『地方事務官問題』について地方行政委員会でよく質問されました。
 この問題というのは、地方自冶法附則8条で、平たく言えば「一定の業務は、県庁で知事の指揮命令を受けてやる業務でも当分の間官吏つまり国家公務員が行う」というもので、当分の間と言ってももう30年も過ぎ、この問題は30年戦争といわれてました。  
 一定の業務に私の局が所管する雇用や雇用保険の業務が含まれており、この問題の帰趨如何は、労働省の職業安定行政の存亡に係わる問題でしたから、われわれも守るのに必死でした。
 山本先生は、仕事の指揮命令は、知事。それをやる職員の人事権は労働大臣にあるというそんな馬鹿な制度は一刻も早くやめるべきだと質問されたのです。「断じて出来ません」というのが政府の答弁です。
 質問が出ると、大臣や局長が答える『答弁メモ』を作るのですが、その質問者の欄には、よく山本さんのお名前があり、それを見るたびにいつか私も局長になって、山本先生とこの問題で対決する日が来ることを夢見てました。しかし、それもほんの少しのミスマッチで残念なことに実現しませんでした。
 しかし、この話は奥様には、一度もしたことはありません。
 何年か前に一昨年先にお亡くなりになった愛息の肇さんと私の3人で東京狛江のマンションでお話していたときに、最後に奥様が肇さんと私の二人に諭されました。
 『あんた達、年取っても働けるうちは、働きなさいよ!』
今でも私の耳に残っています。
 さて『地方事務官問題』、何度も緊迫した場面があったが、
(例えば、社会党が総理以下関係大臣に同じ質問をぶつけ、矛盾点を引き出して一気に攻め込むという戦術に出て、官邸に各省の次官が呼び出され、意見調整や答弁調整をしたときがあった。
 私は、深夜まで出前のすしをぼそぼそ食べながら次官が帰ってくるのを待っていたが、やっと帰ってきた道正次官から手渡された大臣の統一答弁のメモは『ただいま総理がお答えしたとおり』というそっけないものであった。私は、このときのことはまだ鮮やかに記憶している)
平成12年に、『当分の間』が五十年余もかかり、地方労働局(県庁から地方事務官が飛び出し労働基準局と一緒になって)が出来てやっと解決しました。
 それにしても当時附中のPTA会長だった山本弥之助さん、そのお世話で附中に入れていただいた私、本当に感慨深いです―――)以上は、私からの奥さんに対するささやかなレクイエムです。
 
 さて、山田さんが若いときにもう一つ私と酒を飲むとよく言っていた
「私も兄のように京大の哲学にいきたかったなあ・・・」
 お兄さんのことを詳しく私は山田さんから聞いたことはないが、奥さんや周辺の情報からつなぎ合わせると、
 お兄さんは、第14回(1987年度)の朝日新聞の大佛次郎賞を「アウグスティヌス講話」で受賞した(因みに15回は司馬遼太郎氏)西洋中世学の権威京大教授山田 晶氏ではないかと私は推測している。
 
 今年もお中元の季節となった。
 いつもお中元やお歳暮の時期になると、拙宅に一番最初に飛び込んでくるのは、山田さんからのものである。奥さんも最近軽い脳梗塞にかかり不如意なのに・・・
 開けてみると前橋の『たむらやのみそ漬』であった。
「これを見ると正子叔母ちゃんを思い出すね・・・」
 私の長女が悲しそうな声で言った。『たむらや』の芭蕉の句の書いた特徴のある化粧箱を見て長女も思い出したのであろう。
 私の数年前に肝臓がんで亡くなった妹は、お盆で宮古に来るときは、いつもこの『みそ漬』を親戚の人たちへのお土産に持ってきた。
  
 今年もあと一月もすれば、旧盆である。
 お盆をしに、今年も宮古にいかなくちゃあ・・・・・
 いまは誰もいなくなった、ふるさとの家で、おじいさん、おばあさん、父や母、妹達が待ってるからねえ・・・・・・・・・
 一年の中で一番Y氏が大切に思っている行事である。
[PART2]完

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