ノンジャンル No.079

投稿日 2006/07/14  サプリメント−北への幻想
寄稿者 吉田一彦

〜ミスターY氏は何処へ・・・・・〜
 

T 銀河系いわて大使の「岩手県の思い出」

 

 岩手県が新しく始めた『銀河系いわて大使』制度の初代の大使に私は指名された。

 今私の手元に「銀河系いわて大使名鑑」という岩手県庁作成の資料があるが、その資料の冒頭で、

 

増田知事は、以下のように記述しておられる。

 

「銀河系 いわて」は、宮沢賢治が夜空を見ながら

  ふくらませたユニークでスケールの大きな物語の舞台です。

 銀河系いわて大使は、いわてをこよなく愛し、

   ご活躍されている方々にお願いしています

 

 

その名鑑の私の欄の「岩手県の思い出」の中で私は、次のように記述している。

 

宮古では、よく勉強し、思いきり野球をやり、夏は、藤原海岸で真っ黒になるまで泳いだこと。夜の海で泳いだことは、今でも忘れません。

 盛岡では、菜園、上田、北山に下宿し、あまり勉強も手につかず、洋画を観たり、青春の病にとりつかれては、ぼっとしてました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この思い出の記にあるように、私は宮古時代は、夏休みになると藤原須賀(須賀は砂洲、砂浜のこと。)に行って朝から晩まで泳いでいた。

緑の松原と白い砂浜の続く、どぶんと深いこの藤原須賀で・・・当時宮古の人々の海水浴場といえばここが第1であった。

その頃は、男性は、海水パンツをはいている人は、ほとんどおらず、皆6尺褌であった。

7色の〇〇のように、私は、赤、白、黒、緑・・・いろいろの色の褌をとっかえひっかえ締めて泳いでいた(今では、グロテスクに思われ、ゲイビーチや人のあまりいない浜でしか褌の人はいないそうだけど・・・赤い褌は、人食いサメが近づいてきたときには、解いてひらひらさせるとサメ除けにもなるといわれる。)。

しかも褌の締め方にも、前ぶくろ(正面から見て三角形の形をした部分)を大きくしたもの、ビキニのように小さいもの、横みつ(ウエストの部分、縦みつは丁度Tバックのようになる)を水平にしたもの、角度をつけたものといろいろあった(当時はビギニ型の、できる限り小ぶりの締め方が若者には人気があった)

この粋な褌姿で一日泳いだ帰りは、身体についた海の塩を落とすために途中、閉伊川(区界から宮古に流れる全長75,7キロの川、盛岡に流れるのは簗川)の河口で泳いだ。

当時は、水がきれいで、人もほとんどおらず、男女とも水着なし(ノーパンが訛ったのか、たしか宮古弁でノバといった。勿論女の人は少し離れたところで)で、川をシャワーかお風呂代わりにしていた。

泳いでいると、かに、川えびや、鮎やおげえやどんぶぐが身体にまとわりついた(おげえやどんぶくは宮古弁。ウグイ、カジカのこと)。

(この川では、また魚がよく釣れた。特にはぜはよくつれて私も学校から帰るとカバンを投げ出して、宮古橋の下か、山田線の鉄橋の下の辺りに釣りに行った。3年ぐらい前に盛岡で一高の同級会があったときに元葛巻の町長の遠藤春雄氏と話しをしたら、宮古には毎年はぜ釣りに行くというから、どこの場所で釣るのと聞いたら私が子供の時に釣っていた場所と大体同じだったので、私はほんとに嬉しくなり、去年お盆に宮古に帰ったときに、その場所の辺りにわざわざ行ってみたら、昔の雰囲気は若干残っているものの、水の相当の汚れにはがっかりした。これでは今はお風呂代わりにはとても出来ません)

 

さて、話を戻して、この藤原須賀だが、ここで夜、真っ暗くなってから友達と二、三度泳いだことがある。

 月の光できらきら光った海、生ぬるくて、ぬるっと身体にまとわりつき、とっても気持がよくて、泳ぎながら本当に幸わせを実感した一瞬であった。勿論生まれたままのノバで。

その時のことが半世紀ぐらいたってもずっと忘れられず、私は,岩手県で生活した時の一番の思い出として前述の名鑑に書いた次第です。

この藤原須賀と磯鶏(そけい)の松原は、4万トン岸壁と呼ばれる藤原埠頭などの建設のための昭和44年の埋め立てによって、私の宮古の原風景の中から幻の彼方へと消えていった。

 

この間『日本の海水浴100選』の12の特選の一つに選ばれた『浄土が浜』、けちをつけるわけじゃないけど、当時は、水は綺麗だったけど、非常に冷たくて、海底が砂でなくて大きな石ころで足が痛くて、歩きぐるしく、さらにかぜ(ウニ)が足に刺さって、私はもっとも嫌いな海水浴場であった。私は、泳ぎにはほとんど行かなかった。

ただ、岩場の潮だまり(波が引いた後岩のくぼみに海水がたまったところ)には、海草や、かに、イソギンチャク、つぶ貝、小魚などがいて、子供心にわくわくした。まるで豪華なお伽噺の中の水族館みたいであった。たまに、あわびやウニが入ってることもあった。

この子供の頃味わった私の感動を子供達にも見せてやりたいと思って、いつか浄土が浜につれていって潮だまりを覗いてみたらそこには海草さえ生えていなかった

それならばさらに北にいけば発見できるだろうと思って、当時開通したばかりの三陸鉄道に乗って久慈まで昔の潮だまりを求めていってみた。

途中、島の越や田野畑に下車し、終点の久慈に降りて岩場を覗いて見たが、浄土ヶ浜同様海草さえもほとんど岩場に生えていなかった

観光客が根こそぎむしってしまったのだろうか。私は唖然とした。もう二十年も昔の話でさえこうである。

 

それでも『浄土が浜』が特選の12の中に選ばれたというから、日本の海は本当に死んでしまったのだろうか。

 

 

U なぜY氏は複雑な生き方をしたのか

  

「春爛漫」と「戦場 霞が関」をごらんになって、皆さんはなぜY氏がややこしい人生を生きてきたのだろうと思われるだろう。

 

 その源流は、「戦場 霞ヶ関」の「序にかえて」で書いた、一高の「3年生のときになぜか精神的に突然乱れて・・・」や銀河系いわて大使の「岩手県の思い出」の中にある「青春の病にとりつかれてはぼっとしてました」にある。

 

「―――何も、役人をやるなら新橋大学なんかに入らずに、何年浪人してでも頑張って、意地を張らずに東大の法学部にでも入って、『弾よけ』になんかならずに、素直に出世コースに乗って、皆に愛想を振りまきながら仲良しクラブにでも入って、子分を沢山作って、力の強い親分か、政治家につき、天下りとか、税金泥棒とかいった国民の批判ややっかみには一切耳を貸さず、どこまでもエリート精神を貫いて、一気につっ走ればよかったじゃない!!!」

  

Y氏の人生を何がそんなに狂わしたの???

 

それは、黒い礫岩の浜、『蛸の浜』という浄土が浜の北西に隣接する浜から出た・・・黒い髪の青い蛍火の中の少女の姿をしたデビルに出会ったからです。

私は、今にして思えば、このデビルは、私が7歳の頃、確かこの浜で目にした死んだ鯨の化身ではないかと思っている。

もう忘れてしまったけど、父か、叔父さんにつれられて・・、そうそう丁度戦争の終わった年だったから昭和の20年ですか。(昭和20年89日、私は宮古でB29の機銃掃射にあい、父と一緒に山の中を逃げ回っていたので、この年のことはよく覚えている。宮古で4名死亡)

―――大きな一匹の鯨が死んでこの浜に流れ着いて、近所の漁師さんたちが沖に引っ張っていきましたけど・・・

 

私は、この美しく貧しい少女の手を引っ張って、(―――私の意識の中では、附中の皆さんのようなハイブローな方々とはとても住む世界が違っているような気がして、私にはまったく手が出せませんでした。貧しい少女なら、成功したときの喜びは無限大で、失敗してももともとじゃないですか・・・・しかし現実の結果は、私のこのいじらしい思惑とは逆になりました。人生なんて、皮肉なものですよね・・・・)本州で一番早いこの三陸の日の出のように、限りなく大きな夢を見させてやろうと、一番てっぺんまで登ろうとしました

少女は、どんな困難なことでも突破できるような、私にものすごい勇気と意気込みとエネルギーを与えてくれましたから

しかし、あるときこの少女は、突然気まぐれにふらっと私から離れて、御茶の水の湯島聖堂のはるかかなたに消えていってしまったのです。

よくある話ですが、少女は、私にとっては恐ろしいデビルだったのです。よく下世話な話に出てくる人生の邪魔をして喜んでいるあの悪魔ですよ。

それ以来、私は、生きる目標や頑張りのレーゾンデートルをまったく失なってしまいました。

もう結果は、みえみえです。

少女との愛がこの世で一番尊いものだと私の若さが自分に思いこませていましたからそれひとつだけに打ち込んでしまって、私が青春時代に望んでいたほかの大切なものをすべて手に入れることは出来ませんでした。

それが、盛岡時代からずっと後々まで響いて、私は、大きな後悔や人生の余計な苦しみまで背負い込んでしまったのです。

宮古の『蛸の浜』の死んで腐った鯨が、美しい姿をしたデビルの少女に化けて、あの時死んだ鯨を見て一瞬醜いといって心の中で嘲り笑い軽蔑した少年の私に復讐しようと企てたのでしょう。

きっとそうに違いありませんよ!!!

 

それに祖先から受け継いだDNAですね。これが意外と厄介なんですよ。このDNAによって、官僚社会に残存する、私の我慢できない学閥、閨閥、出自、不適切な評価基準による不合理なものを是正しようと身のほども知らずに挑戦して、私は見事にはじき飛ばされました・・・・

私は、えへらえへらして安住するイエスマンではなかったですから

 

V Y氏はこれから何処へ

 

私は、少年の頃、蝶の採集に熱中していた。

学校から帰ると、鞄を放り投げ、補虫網を持って、美しい蝶を追っかけて山野を駆け巡った。

宮古にも、結構色んな蝶が生息していたが、中でも私が魅了されたのは浄土が浜の橙色の浜ゆりの咲いた岩の上をひらひら飛ぶ黄色と黒のまだらの春の女神といわれる『ギフ蝶』であった。

確か、附中でも私の採集した蝶の標本を何かの機会に(忘れましたけど、文化祭か?)出品したと思うが、どなたかこれを見た記憶はありませんか?

(当時、キャスリーン台風、アイオン台風で、盛岡から宮古までの山田線が不通(全線復旧には7年かかった)となり、私は、釜石や花巻を回って盛岡まで来ていた。私の記憶では、盛岡までの東北本線を待つ間、花巻の駅前で宮古の家から持ってきた沢山の蝶の標本箱を抱えて、おっかなびっくりに食堂に入って、支那そばをすすっていた)

 その標本は、その後岩手大学に寄付したと思います(一高のときかな?)

 それから蝶のことでは、宮古1中の時に『蝶の道の研究』−蝶には、決まったバターフライロードがあるーで盛岡で開催された中学の科学研究発表会に先生と一緒に参加しました。

 私が発表した場面の記憶は全然残ってないが、そのとき先生と一緒に初めて食べた大通の食堂の『五目そば』の美味しかったこと(619日の日に50年ぶりに大通をぶらぶら歩いていたらそれらしき食堂がありました)。

(それから盛一時代に、毎日のように通った上田のラーメン屋。数年前に、上田の辺りがあまりにも変わったので、迷子になりながらそのラーメン屋さんを探してみましたが、ありませんでした。この店のラーメンと生まれて初めてこの店で食べた冷風麺(冷やし中華のこと。発祥地は、仙台が多数説のよう。以後50年以上もこの麺を盛岡で食べていないが、物の本によると麺大国盛岡では今でも冷風麺と呼ぶとか。盛岡在住の皆さんいかがでしょうか。)。夏になると、二つとも一緒に食べたいけど、お金がなくてどちらを食べるかいつも迷いました)

 

 さて、昭和274月に皆さんの仲間入りをした1転校生のY氏が加賀野の附中の学び舎で大きなインパクトを受け、それをトリガーに精一杯演じ続けてきた『Y氏の芝居小屋』もクライマックスの凄惨な地獄絵図のシーン(国鉄改革のこと)を残して、いよいよ幕が下りるときが来ました。

 

 

 ところでこれからY氏は一体どこに行くのでしょうか???

 

 Y氏なんかどこにいったってかまわないわよ!!!

 

 たしか若林さんとかおっしゃった、ニヒルで実にいい味を出した女性の声が聞こえてくるようだ――−

 

 

 

 ―ゴールデンブリッジの沖に浮かんだアルカトラズ島の真っ青に晴れ渡ったサンフランシスコの海??

 

 ―高波と戯れるサーフィンの少年、アフロヘアーのビキニのガールがチャーミングに群がるハワイの海??

 

―波の上の色香に誘惑され、三線(さんしん)の島うたが悲しい沖縄の海??                (注1

  

―メカジャの棲息する泥の干潟と島原の子守歌が呼んでいる有明の海??                 (注2

                 

 ヘメロカリスの花で真っ赤に染まった夕凪の瀬戸の海??                    (注3

 

―カリフォルニアブロンズで肌を焼いて、慎太郎刈りで太陽族を気取った湘南葉山の海??          (注4

 

―荒れ狂う海鳴りと、恋しい人への思いで何度も寝返りを打った地吹雪の日本海??

 

―太棹の三味の音に心を揺さぶられ、終航の銅鑼がなる津軽海峡の海??                  (注5

 

−真っ赤に熟れたサンゴソウの群生の彼方に霞む望郷の国後、択捉のオホーツクの海??

 

私にとってはそれぞれがみんな・・・忘れられない海です!!!

 

でも、Y氏が帰るところはここじゃあないんです―――

 

彼が帰るところは人生の苦楽で皺の深く刻みこまれた宮古のおばあさん達が無心に鳴らす鐘の音とさびのきいた御詠歌(無常御和讃)の流れる暗〜い『三陸の海』じゃないですか???

      

Y氏は、きっと少年の日に夢中になって駆け回ったバタフライロードを通って、いつの日か安らかに眠れる母さんの胎内のような『三陸の海』に・・・・・必ず帰りますよ!!!

 

 

(注1)『波の上』 沖縄、那覇の街の名前。私がパスポートで沖縄に行った時代は、『桜坂』とともに那覇の代表的なプレイスポットであった。

 

(注2)『メカジャ』 有明海の生きた化石といわれるミドリシャミセンガイ。

    佐賀に旅したときに、この貝の味噌汁をご馳走になる。美味なり。

 

(注3)『ヘメロカリス』 別名デイリリー。一日花(一晩限りの恋の比喩か?)

 

(注4)『カルフォルニアブロンズ』 かって若者が愛用した肌を濃い茶色に焼く日焼けオイル。

 

(注5)『終航』 昭和63313日は、青函連絡船の終航の日となった。 私は、国鉄清算事業団時代のこの日、函館から出航した羊蹄丸に乗船して終航のためのセレモニーに参加した。

    

     このサプリメントを書き終わってから、南麻布の図書館で、私は、頭やすめに『驛の記憶』という写真集をめくっていたら、作詞家の山川啓介氏という人が書いた面白い詞が『函館本線の小樽築港駅〜朝里付近』の荒れた冬の日本海の波打ち際の線路をはしっている列車の写真を背景に掲載されていたので以下に借用引用した。

          

 

         真相

 

 ひと頃 なにかってば

       失恋したやつらが

       北のほうへ逃げてくる歌が

       流行ったっしょ

       そのたびに

       思い出だの涙だの

       捨てていかれるんじゃ

       たまったもんじゃねえべさ

       だからこっそり国鉄に頼んで

       青函連絡船を

       廃止してもらったんだ

 

       函館の酒場で会ったおやじは

       そう耳打ちをして

       津軽海峡冬景色

       カラオケで歌いはじめた

 

 大人の落書き

 

 

(盛岡生まれのY女)  おもしろいなはん!!

 

(宮古生まれのY氏)  おおきに!!

 

(秋田生まれのY女)  「がっこ」食べれえ!!

 

   言葉も違い、人生は複雑なようだけど、意外と単純でもあるようだ――

(Y氏の68年目の悟り)

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