ノンジャンル No.081

投稿日 2006/08/06  Tokyo Station 丸の内北口の攻防(2)
寄稿者 隆宮  暁

−最後の賭け―
 
3 国鉄改革前夜
                     

 私がR省に在職中に、国鉄の職員局と国鉄改革の問題で情報交換をするために東京築地の料亭で会合を持った。
 当方の出席者は、私の記憶によるとT局長、私、H課長他であったと思う。
 国鉄からの出席者は、職員局長(担当の常務理事がいたかどうか定かでない)などであったと思う。
 そのときの職員局長(?)は、一関出身の畑中氏だったと記憶している。私は同郷と言うこともあって、彼とは特に話も弾んだ。
 畑中氏は、私よりも3級ぐらい先輩の一関一高出身で、いつも岩手日報の学力コンクールのトップに顔を出す常連であったので、私は名前だけは高校時代から知っていた。多分彼とは、その時その話もしただろうと思う。
(私は、一高の2年ごろまでは、日報学力コンクールのトップクラスの常連者、小田中さん(東北大学教授)、石坂さん(北海道大学教授)、大森さん(労働省。退官後愛媛大学教授)、吉田茂さん(東大)などの一高の諸先輩を目指し、必死になって勉強していた)
 そのとき、これらの人達と肩を並べていたのが、一関一高の畑中氏で、確か私の記憶によれば現役で東大に入ったと思う。
 その彼と築地の料亭であったのである。
「そのうち、小沢一郎さんを呼んで、一緒に酒でも飲みましょうよ―――」
 と畑中氏が元気よく言って別れた。
 当時、岩手県出身の自民党代議士で面識のないのは小沢さんだけだったので、その機会がくることを私も楽しみにしていた。
 (私が、1年前に男女機会均等法の国会の根回しをやっていた頃は、力になってもらうため岩手出身の自民党の先生には全部会いにいったが、小沢さんは、議運の委員長かなにかをやっていたが、私は人を見る目がなくてよく失敗しているが、彼があまり役立ちそうになく思われたので、彼だけには会いに行かなかった)
 
 何しろ、国鉄の職員局長といえば、国鉄のエリートコースであったから、畑中氏にもその当時は力強い勢いがあった(当時、部下の職員課長でさえ首相官邸の出入りはフリーパスであった。各省の課長クラスではそうはいかない。)。
 その後国鉄改革をめぐって、政治的に混沌とした。
 畑中氏がどんな立ち回りをしたのか、私は、当時国鉄にいなかったので分からないが、約300人の学士(国鉄ではキャリアー職員のことをそう言っていた)が首を切られたそうだが、畑中氏もその一人であった(彼は、その後千葉の駅ビルの社長になったと聞いた)。まことに革命前夜のようなものすごい迫力である。
 私のほうも1986年1月16日に突然高松に転勤になった。
 そのことについては、前に『春爛漫』で書いたとおりである。
 高松で約1年になろうとした頃、R省の官房の人事担当の秘書課長より電話で私に打診があった。4月から新しく発足する清算事業団への出向の話である。打診と言ってももう決定的なものであって、秘書課長曰く
「君がいくらじたばたしてもこの人事案件は、大臣まで根回しが終わっているので、ひっくり返せないからね。そのつもりで―――」
 前から顔見知りの親しい秘書課長は、そう言うと、ガチャンと電話を切った。こんな乱暴な打診は、私も初めて、前代未聞である。
 後で人事の正式な内示のときに分かったのであるが、R省の国鉄改革問題担当の官房の審議官をしていた田淵孝輔氏を辞職させ、清算事業団の雇用対策担当の理事(その筋の話によると、彼がこの人事を嫌がったので、R省は、事業団に行く条件として、彼に、好きな人物を部長として事業団に出向で連れて行っていいこととし、彼は私を指名したということであった。田淵さんは、新潟の県庁の私より二代前の課長であり、後に退官後第一生命保険相互会社の顧問を私がやったときも私の前任者で、よく私と縁があった)に、高松にいた私が雇用対策本部の第二部長で、そして年次が私より7年下のR省の課長補佐が私の下の課長で付くという構想であった。
 私は、高松に来てから1年しかたっていなかったが、地方勤務1年というのはその頃はR省では常識で、文句を言えるものではなかった。
 ただ、国鉄改革の仕事と聞いて、私は嫌な予感がした。
 その内々示から2カ月がたって3月になると、本省の上司の局長から電話で正式な内示があった。
 私は、前に話を聞いていたので何ということはなかったが、国鉄の問題は、政治的にもその頃になると益々エスカレートしていたので、嫌な予感は前よりも増幅していた。
 それがまず見事に的中した。
 内示を受けて、その夜から深夜になると無言電話が官舎にかかってくるようになった。
 単身赴任で官舎にいるのは私一人だけ、しかも3LDKの室内は、家具類がないので(ダイニングにはソフアとテレビぐらい)電話のベルが深夜に鳴ると、室内一杯に音が共鳴し相当に不気味であった。
 受話器をとって「もしもし・・・」と言っても相手の男は「へらへらへら・・」と不気味に笑って、「もしもし、あなたどなたですか?」と尋ねても相手は何も答えず、無言で電話を切るのである。
 そういった電話が深夜の12時を過ぎると10回ぐらい毎日かかってくるのである。
(私は、後日ある出版社から出ていた紳士録の私の名前の取り消し料として、大阪のヤクザのような人から取消料(12万円)を電話で請求され、拒否し続け、最後は大阪弁で脅かされ相当にすごまれ、それでも強力に突っぱねたことがあるが、無言電話のほうがそれよりも数段不気味であった。)
 国鉄民営化に反対する一派の誰かに私が清算事業団に行くことがどこかのルートでキャッチされ、嫌がらせをされているのであろう。
 この無言電話がこれから始まる長い抗争のスタートとなった。
 怖いというよりも憂鬱で、安眠を妨害され、不愉快な日が繰り返し、半月近くも続いた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 この無言電話を耐え忍んで、私は、1987年の3月31日に、役所の玄関前で、大勢の職員に別れの挨拶をした。
 目に一杯涙をためた若い女子職員から大きな花束をもらい、拍手に送られて、少し照れくささを感じながら花を胸に抱いて、高松空港から機中の人となった。
 綺麗な花に包まれ、素敵な香りに抱かれても我が心の中が天国から地獄とは・・・正にこのことであろうか―――
(次回へ続く)

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