ノンジャンル No.083

投稿日 2006/08/18  Tokyo Station 丸の内北口の攻防(3)
寄稿者 隆宮  暁

−最後の賭け―
 
4 国鉄清算事業団

 1987年4月1日に国鉄清算事業団へ出社して杉浦理事長から辞令をもらった。
 事業団は、運輸省の外郭団体で、職員は、国鉄(この頃はすでにJR東日本、JR東海、JR西日本になっている)からの出向者と役所(運輸、大蔵、自冶、警察、労働、法務(検察、裁判所)、行管などの各省)からの出向者との混成部隊であった。
 事業団と一口に言っても、ランクがあるが、清算事業団は、特殊法人としてはAランクの格付けであった(国会には、各省の出先となる政府委員室。それに記者クラブが2つもある特殊法人は各省並みあるいはそれ以上であって、他の団体にはない)。
 事業団は、旧国鉄を継承する位置付けとなっていた。何しろ国鉄は1870年に民部大蔵省に鉄道掛が置かれてから数えて115年の歴史がある。R省のような戦後に設置された役所とは違い、学士といわれるキャリアーたちも官僚色を濃厚に残していた。
 私が配置されたところは、事業団の二つの仕事(26兆円の借金を返すことと、JRに採用されなかった職員の再就職の促進)のうちの一つをやる雇用対策本部というところであり、この本部には二つの部があった。
 第一部が旧国鉄の職員課長 Mが部長、第二部が私が部長ということであった。
 この本部の母体は、旧国鉄の職員局の流れを組んでいた。
 事業団になる直前の職員局の担当の常務理事は、現在島根県知事の澄田信義氏であり、職員局の次長(その前は職員課長)が国鉄改革の三人男の一人(あとの二人は JR東日本の松田昌士会長とJR西日本の井手正敬会長)と言われた葛西敬之JR東海の会長である。
(澄田知事は、この頃事業団内部では、政界に転出したことを受けて敵前逃亡と酷評されていた)
 職員局長だったI氏が雇用対策本部の本部長となった。
 第一部が職員の就職の促進そのものを扱ったのに対し、私の第二部は、その就職を円滑に進めるための援護処置(例えば、就職させる企業に交付する奨励金の支給、子弟の教育、住宅の確保などの周辺条件の整備)を扱うという比較的軽いものであった。
 その職務割りを見て、私は、仕事が楽だなと最初は高をくくっていた。
 事業団には、旧国鉄の雰囲気が残存していて、1階下には国鉄時代の「第1団交室」、「第2団交室」の看板がそのままかかった室があり、最初見たときには私はぎょっとしたが、上意下達、警察のように上下関係がはっきりしていた。
 雇用対策本部は、国鉄からの出向者とわれわれR省からの出向者で構成され、本社だけで30人ぐらい、最初のうちは国鉄の連中は、我々を相当に警戒していた。
「R省に情報が伝わると、それがすぐに労働組合に流れる??」
という先入観が彼らの頭を強く支配していた。
 陰では、私の周辺にも充分警戒をし、私のR省の課長時代の行動、言動のパターンを調査して、私が大丈夫な人物かどうか、ある筋を通じてじっと様子を見ていた。
 絨毯を敷いた個室に私は隔離され、最初のうちは私には情報をあまりあげてこず、私は慇懃無礼の接し方をされた。
 再々言ったように、国鉄改革は正に革命みたいなもので、周りの噂によると運輸省も虎視眈々と巻き返しの機会を狙っているという。
(下世話な噂によれば、R省もJR東日本の副社長クラスのポストを狙い、元次官のS氏を候補に当てていたという。それが失敗し、現実に手に入れたポストはJR東海の監査役のポストであった。このポストには本省の部長の N氏が辞職して就任した)
 そうこうするうちに、やっと私が大丈夫な人間であり、信用に値する人間だということが分かったようで、今度は一転して、組織の建前を崩して、私に大任を当てるようになった。
 JRに採用されない人達で、就職を要する人達は、今手元に資料がないが、確か7000人ぐらいであったと思う。その大半は、北海道と九州の職員であった。中でも半分以上が北海道の職員であった。
 この職員達を就職させる仕事は、もともとは第1部長の仕事であったが、どこでかぎつけてきたのか、かって私が北海道庁の労政と雇用対策のポジションにいたことを察知して、これ以上の重宝な人材はいないとして、私の仕事として一番大きな問題である「北海道の職員の雇用」の仕事を私にふりつけてきたのである。
 つまり国鉄出身のI本部長と私が北海道、田淵理事と第1部長が本州と九州とはっきりと役割を分担したのである。
 本部長と言ってもI氏は雇用問題は、素人であったのでナンバーワンの重点地区、北海道の問題は、私の肩にかかる部分が大きいのだが、もともと血なまぐさい修羅場の難しい問題を処理するのが大好きな私は、断るどころか、意気に感じてあっさりと引き受けた。
 
 事業団では、毎週、全部長が出席して部長会議が開かれた。
 私はいつも欠かさず出席していたが、議題のほとんどが、財務の借金の話であった。
 事業団の財務は、簡単に言えば、自転車操業だったので、今月は政府保証でいくらお金を金融のシンジケートから借りるかという話が大半で、お金の単位も何千億とか、何百億とか大きいいのであった。
 何しろ26兆円の借金、当時のブラジルなど中南米一国の借金よりも多額で、一日の利子だけで30億円(ちょうどこの頃、プロ野球の阪急ブレーブスが売りに出され、その売値が30億円であったが、それを聞いて事業団の某幹部が冗談半分に、わが社の一日の利子で買えるねと豪語していた)。
 清算事業団は、お金の単位が大きく、私の出身の R省の予算書の単位は、『千円』なのに対し、事業団の単位は、『億円』であった。
 
 事業団には、旧国鉄の鉄道管理局単位で全国に出先機関の支部(その下部組織として地域ごとに支所があった)があり、緊急の場合には日曜日でも電話一本で責任者が招集され、全国会議が開かれた。R省などでは、とても考えられないことであった。
 会議の説明の仕方も軍隊や警察のような一方的な「・・・をしろ」という命令調で、R省の会議のような「お願いします」調とは異なり、私が所管する問題について説明するときは、国鉄側の説明のタッチと私のトーンが合わず、私も最初は大いに面食らった。
(次回へ続く)

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