ノンジャンル No.084

投稿日 2006/08/25  Tokyo Station 丸の内北口の攻防(4)
寄稿者 隆宮  暁

−最後の賭け―
 
5 北の巡礼

 6月の初めに、私の妻と長女が
「明日、札幌に日帰りで行ってくるからねえ・・・」
 というので(彼女らは、外国に行くときでもいつも私には突然に言う)、
「何しにいくんだ?」
 と聞いたら
「昔住んでたところがどう変わったのか見たいの・・・・お父さんには悪いわね―――」
 というから
「―――日帰りとは言わないで、定山渓にでも行ってゆっくり温泉にでもつかってきたら・・・私には遠慮しなくていいよ。私はもう北海道には行きたくないんだから―――」
 と答えたら彼女らは不思議な顔をしていた。
 これは、私の負け惜しみではない。真意である。
 
 何で北海道にはもう行きたくないと私が答えたのか?
 それは、仕事のどろどろした中身にもあったが、清算事業団では、毎週のように北海道行きが続いたからである。
 あの小林あきらの演歌ではないけど、今日は、函館、明日は釧路、帯広、旭川、札幌の支部を基地にして国鉄と関係のあったあらゆる地域に足を運んだのである。
 これが、観光なら楽しいだろうけど、仕事なら話は別。
 
 まず、事業団発足直後、JRから出向の若い職員が随行して、職員(事業団ラインでお世話をする管理職員と就職対策の対象となっている職員)の激励の旅が始まる。
 大抵、二泊三日、役人時代と違って、日程にはまったく余裕がないのである。空港に着くと、まず、支部で最新の情報を把握し、打ち合わせをしてから対象の職員のいる支所に出向き、まず管理職員を激励し、次に対象職員を大きな講堂に集め私が訓辞をするのである。これがすごいのである。こちらが話を始めると、野次、怒号があちこちからとび、こちらが相当に気が強くないと、たちまちのうちに圧倒されるが、私は最初のうちは、今までこんな経験はないから、吃驚して、びびったけど、二回目からは平気になった。
「あなた達は、残念ながらJR北海道には、入れなかったが、どうか気を落とさずに、一日も早く第二の職場を探しましょう。私どもは最善の努力をしますから・・・・・・」
 そんな趣旨の話を私がすると、
「帰れ!」「中曽根は我々を路頭に迷わせないといってるじゃないか!」「不当労働行為!」「ばかやろう!」といった怒号がほうぼうから飛んでくるのである。
 JR北海道に入れなかった悔しさは私も十分分かるけど、だからと言ってここまで荒れなくても・・・
 皆さんを全部採用したらJR北海道は、つぶれるんですよ!!
 彼らは本当にJRが発足した4月の初めごろは殺気立っていた。
 道東の某所に行ったときなんかには、こちらが誠心誠意話をしているのに、机に靴のまま足を上げて、漫画か、週刊誌を読んで、私の話なんか聞いていないのである。
 何でこんな人達のために私が一生懸命にやらなければならないのか、私は、何度も思った。
 大体こんな具合で、一日に何箇所か彼らのいる支所を回ったのである。
 それにしても、役人時代のように、仕事が終わると、周辺の名所旧跡を見たり、名物のみやげ物を買ったりする余裕はとてもない。
 北海道には、甘党の私の好きな帯広の『六花亭』のマルセイバターサンド、大平原、チョコマロン、最近のベビーチョコレート(アーモンド)や札幌の『千秋庵』のノースマンや山親父、同時に辛党でもある私の好きな『佐藤水産』の氷下(コマイ)、なめた、宗八の干物、石狩漬けや鰊の切り込み、鰊漬けなど美味いものが沢山あるというのに,買う気もせず、買う余裕もないのである。
 こんな具合で、北海道を、飛行機や汽車や車で忙しく飛び回った。
 
 10年前に勤務した道庁の役人時代には、季節の良いときだけ出張で出先機関などのある地方を回った。
 冬に回った記憶はないが、事業団ではそんな甘ちょろいことは、到底許されない。
 あるとき、冬の吹雪の中を車で、旭川から留萌の支所まで行ったときは、さすがに凄かった。確か国道233号線である。
 車の走る道路がどこか分からないのである。スノーポールだけが頼り、しかも対向車のダンプカーとすれ違うと、雪が舞い上がって、視界はゼロ。
 (大丈夫かな)私は、何度も思ったが、そこは地元の人達は慣れている―――
 
 それから冬の寒さ。これが半端じゃない。後で出てくる問題の道北の音威子府(おといねっぷ)ここに着いたときなどは、−26度、カミソリの刃で頬をさっと切られたような痛さである。−10度程度の寒さは、道庁の時代にも何度も経験したことはあるが、−26度は初めての経験であった。
 そんな厳しい自然条件を乗り越えながら、管理職員、対策対象職員の激励、指導、政府のハローワークとの連携の強化などのために問題の稚内地区を除き、道内を駆けめぐったのである。
 なぜ、稚内地区には、足を運ばなかったのか?
 この地域は、全国でも一番と言っていいほど荒れて不穏な空気になっていたからである。だからと言って投げておいたわけではないが、当分の間は、当地管轄の旭川の支部任せにして、様子を見ようというのが事業団の雇用対策本部の方針であった。
 
 これと同じように見られがちだったのが、道東の釧路地域であったが、内部事情は稚内とは大分異なっていた。組合の中に稚内地区のような強烈な指導者もおらず、結束もそんなに強くなく、考え方も比較的柔軟であった。だから再就職もかなり進んだ。
 そうなると、こちらも心のゆとりが少しは出来て、昼飯なども支部長など幹部と一緒に昭和天皇も召し上がったという日本蕎麦の『東家』に食べに出かけたりした(でもここはたまにで、いつもは『ちくろ園』という小さな蕎麦屋で、厚岸の丸々と太ったかきを使った『かきそば』を食べていた。広島の『かきうどん』も美味しいけど、これが実に美味)。 
 しかし、夜は、道庁時代のように氷の流れる釧路川の幣舞橋(ぬさまいばし)を渡って、繁華街に出て、スナックに入り、美川憲一の『釧路の夜』を歌うようなこともなく、私は、釧路駅前のホテルに閉じこもって窓から夜の釧路駅を眺めるのがしばしばであった。
 我が郷里の先輩、石川啄木は、明治41年1月21日の夜の9時30分にこの釧路駅(今の駅より南西に500メートルずれたところにあった)に着いて、
  さいはての駅に下り立ち/ 雪あかり/ さびしき町に
  あゆみ入りにき          
                   ( 『一握の砂』 )
 
 と詠んだそうだが、程度の差はあるが、私が眺める今の釧路駅前の風景も私には実に寂しく感じられた。
 
(石川啄木は、北海道では、函館、札幌、小樽と流れ、最後に釧路に来て、新聞社に勤め、芸者小奴などと戯れて、76日間過ごすと、宮古経由函館行きの船に乗船して、船が宮古に寄港すると、数時間宮古に上陸して、鍬ヶ崎(くわがさき。かつては大きな遊郭が数軒あった色街で、私も中学生の頃、夜、日本手ぬぐいでほうかむりをして前を通り、おねえさんに声をかけられたことがある。勿論店には入らなかった。)の医師道又さん(今も同じ場所で数代後の子孫が病院をやっている。この間のお盆のときに近くに所用があり私は前まで行った。)を尋ね、盛岡中学の恩師の近況を尋ねていることが日記に出ているとか。それを記した碑が宮古の光岸地(こうがんじ)に建立されている。実に不思議な縁である。)

(次回へ続く)

TOPページへ


iwayama3 since2002.11
Presented by Ayako Taguchi