ノンジャンル No.085

投稿日 2006/09/03  Tokyo Station 丸の内北口の攻防(5)
寄稿者 隆宮  暁

−最後の賭け―
 
6 説得の包囲網

 私がやっている仕事の要諦は、いかにして対策対象職員にとって魅力のある求人を沢山集めるか、そして、その求人を受け入れるように彼らを説得するか、にある。
 雇用対策の基本的な方針を立てるため内閣には、総理大臣をトップとする各省大臣で構成される政府の対策本部がおかれた。
 求人の確保としては、公的なもの(公務員、それに準じるもの)、民間、本州JRの採用がターゲットであった。
 各省からは役人や外郭団体の職員の求人が出され、民間の求人は、ハローワークや事業団の支部、支所が懸命に開拓し、東日本や東海などの本州のJRには、広域的な募集枠の設定を要請した。
 もともと国鉄の職員は、地域でも優秀な職員が採用されているので、採用した役所からの評判もよかったし、役所から出る求人には応募する希望者が殺到した。
 それとJR東日本、JR東海、JR西日本の職員の広域募集にも、彼らにはもともと地域は違うが、なれた職場なので、北海道からも泣き泣き知人や友人と辛い別れをして、例のしょっぱい川(津軽海峡)を渡って沢山の人達が応募した。
 しかし、特別の事情があり、どうしても北海道を離れられない職員もいたが、これらの職員に斡旋する道内の民間の求人は、もともと北海道は、雇用情勢がよくない地域だけに、優良な求人を見つけるのに悪戦苦闘を続けた。
 しかし、私は、前に道庁で私の部下だった連中を直接叱咤激励して、ハローワークなどの職業安定機関を総動員して、(本来ならばR省本省の担当局経由でなければいけないが、そこを飛ばして)求人を集めた。だが、このルートでは現実のところなかなか良い求人は集まらなかった。
 むしろ事業団の支部、支所が集める求人には、かっての国鉄時代の力が背景にあるだけに、有力なものがあった。
 私は、R省系統よりも数段強力な国鉄の力を改めて思い知らされた。
 
 私は、こうした求人開拓の問題と並行して、我々が提供する求人に対策対象職員達が応ずるように慫慂するようにするための組合幹部に対する働きかけを強めた。
 まず、全北海道労働組合協議会(『全道労協』と略称。総評の組合員の1割を占める全国でも有数の地評)の顔なじみの幹部を通じて国労の幹部に働きかけた。
 そして、道議会対策と国会対策を念頭において、道庁にR省から来ている後輩のO職業安定課長(彼は、私が頼んだことはほとんどやってくれた。私は彼の誠実さと公務員としての力量に驚き、本省幹部に彼が極めて優秀な職員であると上申していた。彼はこの9月1日付けで厚生労働省の官房長に栄転)と毎日のように電話で連絡を取り合って、万遺漏のないようにした。
 この頃北海道庁は長年の保守道政から衣替えして、革新道政(横路知事)に変わっていた。
 私は、札幌に行くと連日のように道庁に顔を出し、全道労協に足を運んで、情報の交換をした。
「だから言ったじゃないの・・・あの時――我々が言ったように道庁に残っていれば、こんな苦労をしなくても済んだのに・・・・・・」
 横路道政を誕生させた全道労協の顔見知りの幹部は、そういって私を慰めてくれた。前に道庁に勤務したときに、彼らは、私が北海道に残るように強く勧めた。
「将来岩手に帰りたければ、霞ヶ関からでなくとも、道庁からでもいいじゃないか・・・・・」
 確かに、北海道政は、その直後(私が北海道から帰る直前に知事選があって、私達は、三上副知事を担いで、横路氏に敗れた)革新路線に変わっていたので、私にとってはそのほうが結果的にはよかったかも知れないが、その時点では、私は、まだ霞ヶ関に大きな期待と未練を持っていた。
 さて、話を本論に戻すと、求人は確保したものの、ある地域ではそれを一人ひとりの職員に提示しても食いついてこなかった。
 あくまでも、もといたJR北海道に戻るのでなければ・・・・それ以外の再就職先は全然頭にはないという強硬派である。
 我々がJR北海道から締め出されたのは、国鉄民営化に反対した国労の組合活動をやっていたからであって、これは明らかに不当労働行為であって、その主張を地方労働委員会に提訴していた。
 この戦いには、必ず勝つというのがもともと彼らの信念であり、これに勝てば、自動的にJR北海道に戻れるというのである。全国ほとんどの地域で同じような戦いが進められていた。
 このことによってある地域、あるグループでは再就職が思うように進まなかった。このことが彼らの思惑どうりに進めばあるいはいいかもしれないが、それには何の保障もなかった。もしも反対の結果が出たら彼らはどうするのだろう。私はそのことを心から心配した。
 この不当労働行為の問題については、変な噂が流れていた。
 こともあろうに、今は大官になっているR省の某幹部が国労の幹部に『不当労働行為救済戦法』をたきつけたという噂である。それが国労の幹部から北海道の強硬派に伝わりいつの日にか、地労委によって不当労働行為と認定され、JR北海道に戻れるというのである。
 しかし、この議論は、中労委も含めた労働委員会でたとえ不当労働行為が認定されたとしても、裁判制度というものがあることを忘れた議論であり、彼らのその後の生活ということを考えると、無責任な論理であると私は危惧していた。
 私は、このR省の今はぬくぬくと出世している某幹部がもしも本当にそんなことで彼らを煽動したとすれば、その確信のない神話が私たちが実施している再就職活動の仕事に大きな支障となり、就職の実績が上がらず、大きな背信行為だと私は心の底から怒りを感じていた。

7 身辺警備
 
 国鉄改革をめぐっては、国鉄当局と国労を初めとする労働組合(動労、鉄労、全施労)との間に長い間にわたっていろいろ複雑な確執があった。
 特に最大の組合国労は、他の組合が国鉄改革に賛成に態度を改め、協力したのに対して、最後まで徹底的に抗戦した。
 中でも1960年代のマル生運動による組織的な切り崩しにあってから国鉄当局との対立を激化させ、数次にわたって違法ストを打って、国民の顰蹙を買い支持を失っていった。
 このことによって、JRの新会社の発足に当たっても採用から締め出されたというのが、国労及びその組合員の論理であった。
 これに、新左翼の革マル、中核が絡み合って、国鉄改革の動きは、最高にエスカレートし、複雑な様相を見せていき、我々の仕事にも険悪な影を落としていった。
 このため事業団当局、警察の警備当局は、杉浦理事長に数人のボデーガードをつけるほか、雇用対策担当の二人の理事に対しても民間警備会社に所要の警備を依頼していた。
(このほか、かっては『鬼の動労の・・・』といわれ、革マルとの関係が噂されるJR東日本の組合のM委員長には、食堂で会うといつも二人のボデーガードが付いていた。今この辺りのことをめぐりJR東日本と革マルとの関係を某週刊誌は盛んに書きたてている)
 実際に、地方ではセクト間の争いも激化し、ゲバ棒による暴力事件も頻発していた。
 私は、当時は、目黒の各省合同の官舎に住んでいたが、所轄の目黒署は、最初のうちは小型の装甲車を建物のかげに目たたないように待機させ、警察官を何人か常駐させていた。
  しかし、そのうち官舎の脇の空き地に、プレハブの小屋を建て警察官を四六時中常駐させるようになった。
 何であんな小屋が建ったんだろうか?私の子供達も不思議がっていた(事業団は、国鉄時代から警察と緊密な関係にあり、キャリアーの中から全国で数箇所、県警の本部長を出していた。それに引き換え、R省は課長クラスの交流のみ)。
 しかし、私の女房は目黒署から連絡を受けており、自分の亭主が警察の警備の対象になっていることは分かっていた。
 ただ、子供達には、心配をかけるといけないので、
「あのプレハブはねえ、いつもテレビで、天皇陛下の病状について発表している〇階に住んでいる前田さん(後の警視総監)という宮内庁の総務課長のおじさんがいるでしょう。あの方を警備するために建てたものなのよ」
 と教え込んでいた。
 私自身は、出退勤時間の変更、出勤経路の変更を警察当局の要請を受けて事業団から言われ、気休めに防犯のためのブザーを持たされていた。
 私は、この頃は、気力、体力とも充実していたので、こうした不穏な周辺の動きはそれほど気にならなかったが、よくよく考えてみれば、かなり物騒なことではあった。
(次回へ続く)

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