ノンジャンル No.086

投稿日 2006/09/12  Tokyo Station 丸の内北口の攻防(6)
寄稿者 隆宮  暁

−最後の賭け―
 
 8 青函連絡船の終航

 雇用対策第二部の懇親会が芝のボーリング場で行われた。その頃流行していたボーリング大会である。
 私はボーリングがへたくそで、当日は、少しお腹が痛かったが、部のせっかくの親睦の行事でもあるし、無理を押して参加した。
 相変わらず私は、不器用で、ボーリングの成績も最下位に近いものであったが、それにしても今日のスコアーはあまりにもひどすぎた。
 言い訳するつもりはないが、ボーリングを投げるときの左脇腹の痛みは尋常ではなかった。
 私は、数ヶ月前に腎臓結石で新宿のJR東日本の病院(前の国鉄病院)に入院し、超音波による施術を受け退院していた。
 腎臓結石は、私の中年の頃の持病(かのナポレオンもこの病で悩ませられたそうだが、私も格好だけはナポレオン並みか)で、前にも6回ほど痛みを感じて、今回は7回目であったが、前回までは自分で始末できたが、今回だけはどうしても我慢できず病院に入院した。
 その頃は、『体外衝撃波結石粉砕術』という最先端の技術が我が国に導入されたばかりで、その設備のある千葉の病院でやればと進められたが、保険が利かず、費用が100万円もかかるというので、私はケチって、別の方法(腎臓に近い左側の背中に小さな穴を開けそこから管を入れて超音波で石を砕く療法。確か6時間もかかり、麻酔が効きすぎて、死にたくなるほどひどい目にあった)でやったが、私の場合は、1度目は失敗、2度目は成功したという主治医の話であった。
(本人から聞いたわけではなく、何かの記事で読んだのだが、女優の吉行和子は私と同じ方法で3度か4度やったそうだが、失敗し、結局開腹手術をやって石を採ったそうである)
 しかし、不思議なことに今日またボーリング場で急に痛くなったのである。
 7回も石がたまると、さすがにその痛みが何の痛みか分かるようになり、今度も間違いなく腎臓結石の痛みであると思った。
 この病気は、三大痛い病の一つで、大抵の場合は卒倒し、救急車ものだそうだが、私の石は、6個出たものを見ると、いずれも外側にぎざぎざがあったためか、少しずつしか動かず、幸いにも卒倒するほどではなかった。
 しかし、今日のボーリング場の痛みは前と比べても半端なものではなかった。私は、たまたま痛み止めの座薬を持っていたので、それで痛みをしのいだ。
 明日は、函館への出張であった。青函連絡船の終航式に出席するためである。
 青函の海で働く人達も私どもの仕事の再就職対策の対象であった。
 青函連絡船は、青函トンネルが建設されたことによって、
 1988年の3月13日をもって廃止されることになっていた。
 青函トンネルは、タイタニック号に次ぐ海難事故の洞爺丸事件を契機に作られたのである。
 私は、翌日、函館まで飛行機で飛んだが、相変わらずお腹の痛みは止まらなかった。
 私は、終航式では、函館から出る羊蹄丸に乗ることが決まっていた。これに参加できなければ大変である。それにしても我慢できないほど痛い。
 私は、前日の夕食時、激痛で食欲はなかったが、頑張って嫌いな生ビールを大きなジョッキーで7杯飲んだ。前にもジョギングとビールを大量に飲んで自分の力で石をだしていた。
 ホテルの部屋に戻ると、痛みは益々増し、座っていられない。
 私は、ねじり鉢巻をして、部屋の中をぐるぐる歩いて痛みに耐えた。
 だんだん石が尿管を下に下りてくるのが分かった。膀胱に入ればしめたものである。もう少しの我慢である。
 夜中に、トイレの壁に頭をぶつけて激痛をこらえ、血吹雪とともにようやく石を出したのである。このときの快感は、表現の仕様がない。私のトンネルもめでたく貫通したのである。
 翌日の津軽海峡は、私の気持と同様に、すっきりとした快晴であった。
 桟橋で、セレモニーが行われ、私は、羊蹄丸に乗船した。
 桟橋からは、地元の楽団が演奏する別れの曲が流れ、白い制服を着たボーイさんが銅鑼を打ち鳴らして、沢山の五色のテープが飛んだ。
 羊蹄丸は、最後の航海に出た。
 私は、操舵室からもう二度と見ることのない海峡を眺めていた。海鳥たちが船に群がった。
 船は、波を切って青森を目指して進んだ。
 
 36年前に、附属中学の修学旅行で青函丸に沢山のクラスメートと一緒に乗船し、真夜中の青森港から函館に向かった頃のことを・・・・私は思い出していた。
 
 思わず涙がこぼれた。
 
                    
 9 稚内上陸

 私は、事業団の個室の机の前に、大きな紙に担当の北海道の支所ごとの要対策職員の数を書き込んで、グラフに掲げ、就職の報告があるたびにそれを書き加えていた。
 どこの支所が対策が進み、どこの支所が対策が浸透していないか、一目瞭然であった。
 グラフを眺めていると、対策が進んでいないのは、旭川支部管内の名寄や音威子府や稚内であった。
 旭川支部に出かけ、責任者から対策が進まない理由を聞くと、これらの地域には、一人の強力な組合の指導者がいて、彼の統率が徹底しているからだという。
 私は、その人物を詳細に調べ頭の中にインプットした。
 これらの地域特に稚内では、このリーダーの指導等によって、結束が固く、管理職員に対するいやがらせ、突き上げ、自宅に押しかけるなどが行われ、支所内でも管理職員がいる事務室には中から鍵をかけて閉じこもるといった報告が私の耳に入っていた。
 そして、自宅まで押しかけ、家族に恐怖感を与えるので、皆家族を実家に帰しているという始末であった。
 さらに職員に対しては、強い突き上げが行われ、中にはノイローゼになって病院に入院しているケースも報告されていた。
 そして、この稚内には、全国から左翼の学者、政治家、ジャーナリストなどが激励に入っている情報が頻繁に私の耳に届いていた。
 しかし、事業団の本社の者は、これらの危険な地域には、誰も近づかなかった。みな現地任せであった。私は、このことについては、前から苦々しく思い、チャンスを見て、一度稚内に入ろうと心の奥深くで決めていた。
 しかし、なかなかチャンスは到来しなかった。何度か口に出して上層部に現地入りを上申しても、いい返事は返ってこなかった。
 この地域に関するマイナスイメージの報告があるたびに私はいらいらした。
 しかし、3年間の雇用対策の終期が近づき、本州JRの広域募集のときにチャンスはやってきた。
 私は、この最後の機会に、誰がなんと言おうと、私に与えられた職務を全うするために稚内に入ろうと決意した。
 さすがに今度は、最後だけに誰も止めなかった。
 私は、真冬の3月の某日、JR東日本から出向している大学時代にラグビーの選手だった屈強の若者をボデーガードにして稚内に向かった。
 稚内行きの飛行機は、厚く垂れ込めた雲に邪魔されてなかなか稚内空港に着陸できなかった。飛行機の窓から下界を眺めると雲以外は何も見えないのである。
「もうここは、国境に近いからこんな状況だとソ連に間違って入って撃ち落されるんじゃないかなあ・・・」
私が言うと隣の若者は、
「部長。撃ち落されたほうが稚内に下りるよりもよっぽど楽ですよ」
 さすがの若者も少し恐怖を覚えているのか、物騒でやけっぱちなことを言った。
 何回稚内の上空を旋回しただろうか。
 私は今でもはっきりと覚えているけど、どす黒い灰色の雲の一片が切れて、そこから一瞬明るい光が覗いた。
 そのほんの一瞬を捉えて、飛行機は、稚内空港に着陸した。
 よかったというよりも私の緊張は、着陸によって一挙に高まった。
 空港には、支所長と職員が一人迎えに出ていた。
 二人とも緊張し、直立不動で私共に挨拶した。彼らは気のせいか少し疲弊しているように見えた。
「雲が張り詰め、飛行機が誤ってサハリンまで行くのではないかと思いましたよ・・・・」
 私が冗談を言うとやっと二人の職員から薄い笑みが漏れた。
 私達は、車で支所の建物に案内された。室内に入ると格別変わった様子はなかった。私はこの時点で、要対策の職員達が押しかけてきて、私に面会や団交を申し入れるものと覚悟し、私も腹をくくっていたが、彼等は、姿を現さなかった。
 私は心の中では密かに、問題のリーダーと会って、さしで話をしたいと思っていたが、下手にそれを私の方から言い出しても支所の管理職員達が困ると思い、私は言い出さなかった。
 管理職員を一同に集め、彼らの疲れきった顔を見て、可哀想に思いながら、労わりと激励の挨拶をした。
「もう少しだから頑張りましょう!」
 職員達は、力なく首を振った。

 国鉄問題については、新聞も朝日や地元の北海道新聞(道新)は、かなり組合側に軸足を置いて記事を書いていた。
 稚内の問題については、いつも避けて通ってみて見ぬふりをしていた。
 私は、本社で記者クラブとの懇親の機会があるたびに、道新の記者をつかまえては稚内のことをちゃんと報道したらどうだといつも言っていた。
「稚内では、組合員達はやりたい放題・・・・・なぜあなた方はその地域のことを正確に取材して書かないんだ?」
 記者は何も答えなかった。記者たちは、稚内の事実を正確に知ってはいるのだろうが、と私は思っていた。
(次回へ続く)

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