ノンジャンル No.087

投稿日 2006/10/01  Tokyo Station 丸の内北口の攻防(7)
寄稿者 隆宮  暁

−最後の賭け―
 
 10 職員の自殺

 労働組合サイドの何かの記事の中に、国鉄改革の動きの中で、200人の組合員が自殺したと書いたのを読んだ気がする。
 私は、清算事業団に出向した1987年4月1日以前のことは、正確にはわからないが、清算事業団になってから管理職員は何人かは自殺しているが、対策対象の職員では一人の自殺者もいないと記憶している。
 管理職員のある方が自殺したときに、私も葬儀に参列した。
 それは、大阪と奈良の県境に住んでいてJR西日本から事業団の大阪支部に出向していた方の自殺のときであった。
 その方の自宅は、喧騒の大阪に隣接するのんびりとした奈良の田園風景の中にあった。
 家の前には、JRや事業団の偉い人の花輪が沢山並んでいた。
 大阪の支部の人が私に説明してくれた。
「あの火の見櫓の上に登って、紐をかけて首をつったんですよ」
 支部の人が指差す先には、昔はどこの田舎にも見られた木製の古い茶色がかった火の見櫓がたっていた。
「あの火の見櫓の上で・・・・どうして?」
 私が尋ねると
「いや、私どもも何が原因か分かりませんよ。前日はいつもどうり勤務してましたからね。翌日、始業時間になっても顔が見えないのでおかしいと思い、お宅に電話したら・・・いつもどうり家を出ているというし・・・・それからが大騒ぎになって・・・奥さんや親戚の人が手分けして探したら・・・あの火の見櫓にぶら下がっていたんですよ―――」
 私は、そこまで説明を聞いて、家の中に入っていった。
 仏壇の横には、奥さんと小さな女の子がただしょんぼりと座っていた。
 私は、頭の中が真っ白になり、なんとご家族を慰めたらよいのか分からなかったので、ただ頭を下げて、仏壇に手を合わせた。
 私が想像するに、この職員は、事業団と対象職員か労働組合との間のどろどろの狭間の中でにっちもさっちもいかなくなり、自殺したのではないだろうか?
 私は、いたたまれない気持ちになった。大阪に戻る電車の中で無意識に鄙びた景色をうつろな目で追っていた。
 
(このときの仏壇の横の小さな女の子に強い衝撃を受け、私は、『海鳥たちよ 明日の空に飛びたて』という小説を夢中で書いた)

 11 最後の賭け

 法律上決められた3年間の雇用対策の期限が近づいてきた。し
かし、まだ就職してない職員は、全国で千数百人もいた。
 部外では、この期限をさらに延長すべきだという意見も出始めていたが、事業団内部では、あくまでもこの期限をもって対策を終了すべきだとの意見が有力であった。
 
 このためにどうするか。今まで3回にわたって実施してきた本州のJR会社の広域募集をもう一度実施すべしとの議論が事業団内部で持ち上がっていた。
 このため運輸省を通じてJRに働きかけても良い返事はなかなか返ってこなかった。会社自体の体力の問題に加え、国労とJRの組合との「労労問題」が予想以上に根深く、深刻であった。
 まだ、就職せず、残っている職員は、国労の組合員が多く、しかも強硬派が多かった。
 最近、JRの中で勢力を増してきた前の動労系の人達が組織する組合が広域採用に反対していた。
 しかし、そうかといってJRの広域募集をしなければ、残っている職員を減らすことが出来ず、残っている職員が多い限り、対策の期間を延長すべきだという議論が勢力を増すことは必定であった。
 広域募集は、第1部の部長以下が中心となって運輸省に強く働きかけることとして、私は、北海道の労働界の実力者を回って就職の慫慂についての道内の国労幹部への働きかけを根回しして歩いた。
 事業団当局は、どんな犠牲を払っても、北海道の労働界を上げて、この問題を解決し、一人でも多くの人を再就職させて欲しいと、私に期待しており、その期待を受けて、私も粘り強く歩いていた。
「4月の対策の期限が来れば、問題は収まりますよ。第一北海道の労働運動の歴史の中で、闘争団を作り長年にわたって戦った例はないから・・・・・それに不当労働行為にしても、裁判にしても上級審にいけばいくほど保守的だから・・・・・ここを強調すれば、最後はあなたの願うとうりにことは運ぶと思うよ・・・」
 北海道労働界の幹部達には、大体こんな楽観的な意見が多かったが、接触してもらった国労の幹部からはいろ良い返事は返ってこなかった。
 私は、道庁のサイドからも国労の幹部に同様の働きかけをしてもらったが、こちらもうまくいかなかった。
 そのうち運輸省を通じて持ちかけていた最後4回目の広域募集の話がやっと見通しがたって、近く実施する運びとなった。
 何しろこの募集では今まで2300人程度が就職しているのだから国労さえ方針を変えてこの話に柔軟に乗ってくれるなら大幅に未就職者を減らすことが出来るのである。
 もう事業団、政府としても打つ手はこれが最後である。
 これで大幅に就職者を出さないと、きっと雇用対策の実施期限の延長論が出てくるに決まっている。
 私は、全道労協の某幹部に、直接道の国労の最高幹部の一人と接触する機会を作ってくれるように依頼した。
 一方、対策期限ぎりぎりに実施される広域募集が本決まりになると、これに応ずるよう説得する支所段階の指導を強化するために私は、北海道の問題地区を回ることにした。
 その手始めが、稚内、名寄、音威子府であった。
 稚内の様子は、既に9で書いたが、もう一つの問題の地域、音威子府に入ったときには、もう日がとっぷりと落ちて夜になっていたが、3月半ば過ぎだというのに、気温はー26度であった。
 私が肌にこれまで感じた一番寒い夜であった。
 音威子府の支所を出ると、真っ暗闇のとばりのはるか向こうの村の施設に灯りが赤々とついていた。
「あの灯りが国労の連中が最後の広域にどう対処するか、相談してる場所ですよ」
 今でもはっきりと覚えているが、灯りがこうこうとついているのは、北海道で一番小さな村、鉄道の町といわれた音威子府では、ここだけであった。
「将来に間違いのない結論をだしてくれればいいが・・・・」
 私は、心の中で祈っていた。

 全道労協の幹部から道の国労の最高幹部一人との接触が出来るという連絡が入った。
 私は、東京から来ていたI本部長と落ち合って札幌のKホテルに急いだ。
 国労の最高幹部が来た。勿論私達は、彼とは初対面である。
「これが最後のチャンスです。この募集に応じなければ、私達は解雇という最後の手段に出ざるを得ません。どうしても応じて欲しい。あなた方は、不当労働行為で戦うといっているけど、最後は裁判で上級審に行けばいくほど、難しくなる。貴方達は大きな責任を背負っている。解雇され、闘争団を作って、何十年も彼らを引っ張っていって責任は取れるのか。何とか旭川以北の連中が今回の募集に全員応ずるように説得して欲しい―――」
 細かい言い回しは、このとうりではないが、このような趣旨でI本部長と二人で最高幹部を説得した。
 彼は、いろいろと理屈を並べて、われわれに抵抗の姿勢を見せていたが、最後は折れて、明日旭川に行って、現地の幹部を説得してみましょうといってその場を別れた。
 私は、ほんの少しほっとしたが、彼にあまり自信ありげな態度が見られなかったことから、必ずしも本部の言うことを聞かない筋金入りの連中をはたして彼が説得できるだろうかと心配になった。
 しかし、もう道はこれしかなかった。我々は、最善を尽くしたのだ。
旭川以北の連中は、とにかく一筋縄ではいかなかった。
 例えば、音威子府の場合、普通、対策対象者本人が説得に応じない場合でも、家族や友人から説得してもらうという方法は、この種の私の長年の経験から常套の手段ではあるが、音威子府の場合は、家族と本人との間には寸分の距離の乖離もなかった。つまりこの問題に関しては本人と家族は一心同体であった。
「どこまでも、父ちゃんについていくから・・・・・・」
 というのが、この地域の職員の父母や奥さんや子供達であった。
 それだけになんとしてでも彼らが路頭に迷うような道を選択するのを回避するようにしなければならないと私どもも必死であった。
 その一つが札幌の国労の最高幹部を通じて大幅に未就職者が残ることを避けようと狙った最後の一か八かの賭けであった。
 しかし、この手は、私が危惧したとおり残念ながら裏目に出た。
最後の応募の締め切りを終わって、結果を見ると、われわれが予想したよりもこの広域募集に応じた職員はこの地域ではほとんどなかった。これに応募して就職したのは、全国でわずか30人程度であった。
 最後の賭けは、失敗に終わったのである。

 このときから数年たって、私たちが最後に賭けた札幌の最高幹部は、出世して国労本部の最高幹部の一人になっていた。
 某日、R省関係の、あるパーティーで彼と顔を合わせたが、彼はR省の大臣に挨拶し、そ知らぬふりをして私のすぐ側を素通りしていった。私が彼の顔を忘れずにはっきりと覚えているというのにである―――

                     
 12 終章― 1047人の解雇―

 私の机の前のグラフからは、残念ながら要対策者の数は0になって消えていくことはなかった。
 北海道に次いで多く残っている九州や本州地区の未就職の職員と合わせると、全国で1047の職員が就職せずに残ったのである。
 このような結果が出るのは、対策期間が進むにつれて最悪のケースとして私は想定はしていた。
 本当は私は、心の中では、北海道地区をもう少し減少させ、全体でこれよりも大幅に減らしたいと決意していた。
 この対策が始まった直後から今日までのシナリオを書いて、私は第1部の幹部にも示していたが、3年間の展開は大体私の予想通りであった。
 
 残った職員をどうするか。
  無責任なマスコミなどの延長論もあったが、私は、残った職員がわれわれの提供する求人に見向きもしない限り(実際のところ事業団で求人を斡旋した回数は一人当たり平均して30件程度であった)、対策をいつまで延長しても同じことの繰り返しだと思った。
 法律は、この3年で失効するので、残った職員は、残念ながら解雇せざるを得ないというのが私の結論であった(後の司法でも事業団からの解雇の正当性は認められている)
 事業団の幹部の中には、こんな大量の職員を解雇するのは問題だという意見も一部にあったと聞くが、雇用対策本部の課長クラスの意見は私と同じであった。
 仮に、上層部が躊躇しても2、26事件の青年将校のようにこのような考えでやらざるを得ないだろうと私は進言した。
私の出身省のR省がどんな考えを持ってるかは私は接触したことがないので、よく分からなかった。
 もともとこの国鉄改革というビックプロジェクトは、一つの省の考えではなく、日本国政府全体という単位で考えるべきだと思っていたので、R省との接触は、上司の田淵理事や部下の課長に任せ、私はR省へは一切顔を出さなかった。
 解雇の手続きをとるについては、後で問題が出ないように、労働基準法の手続きに完璧にしたがって実施すべきだと進言し、R省および事業団内部の法務課との実務家同士の綿密な折衝が始められた。
 その一方で、労働組合との団交を行い、最後通告を行わなければならない。
 国鉄時代から団対交渉は、専門の職員がやることになっていたので、当日は私は、団交の席には着かなかった。
 団交室から外に漏れる声を聞いていると、当局の解雇についての説明がなされると、罵声に近い抗議が組合から出された後、沈黙だけで団交は終わった。
 東京駅の前では、新左翼の連中が
「事業団当局が解雇に踏み切ったら、事業団幹部は、全員殲滅する」
 というビラをばら撒いていた。
「殲滅」皆殺しという意味である。
 我々の周りの警備がいっそう強化された。
 各組合との団交が終わると、1047人の職員一人ひとりに労働基準法の規定に従って解雇予告がなされた。出頭しない者、予告を受け取らない者、所在の不明な者については、法の手続きを踏んだ厳正な措置がとられた。
 
 かくてこの困難でむなしい戦い(私は彼らに対して一度も敵意を持ったことはないから『任務』という表現の方が適当か。むしろこの仕事は自分に対する人間的な戦いでもあった)は終わった。

 私どもの雇用対策部は、事業団の組織図から消去され、私も1990年の4月1日にR省に戻ることになった。
 解雇された人達は、地域ごとにさっそく36の国労闘争団を組織したと聞く。 
 そして、生活のための物販活動をしながら、労働委員会、裁判所、ILO、での闘争活動をひつように展開し、現在は、冒頭の1に記したプロパガンダにもあったように政治的な解決を求めるなど彼らは今も闘争を継続している。
 
 解雇から20年の月日があっという間に流れた。
 彼らはこれまでどう生きてきたか?
 音威子府の人達の生活ぶりを私が書いた小説『海鳥たちよ明日の空へ飛びたて』から以下に抜粋しておく。

 
 「数年前にある週刊誌に音威子府の闘争団のレポートがのっているのを読んだんですが、彼らは家族ぐるみの団結を誇りにして、団員が働いた収入もプールして貸しだしと言う形で助け合って生活し、頑張っているようですね。そしてもう十数年も闘っているわけですが、闘争団の幹部の一人は、『こんな長い間闘い抜こうと考えた人は最初は誰一人もいませんでしたよ』と言ってましたね」
 「そうですか。音威子府の人達もすごいなあ―――」
 
 森嶋(筆者注 宗谷本線の特急サロベツで主人公と乗り合わせた大学生)は、卓也(主人公)が話したレポートの話に驚いた。
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丸の内北口の変貌 ―現代版『強者(つわもの)どもが夢の跡』―
(袰岩弘道氏 撮影)
(次回へ続く)

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