ノンジャンル No.096

投稿日 2007/04/09  夕張有情(1)
寄稿者 吉田一彦


 最近のニュースを見ていて私の胸を締め付けるものはいくつかあるが、その中でも北海道の夕張市の財政破綻のニュースは際立ったものの一つである。
 夕張市は、負債約353億円、この3月6日から財政再建団体として厳しい試練にさらされているが、この間も売れっ子のみのもんたが現地をルポして涙したり、北海道在住の松山千春が市に100万円寄付したりというニュースが流れていたが、この問題はそう簡単な問題ではない。
 私がこの夕張市と縁を持ったのは、道庁に勤務した昭和53年からだからもう20年にもなる。
 爾来、私が地方勤務をして係わりを持った市の中で、夕張は、故郷の宮古市に次いでもっとも気になる地方公共団体である。
 私が北海道に赴任した頃は、石炭産業は、斜陽産業として、厳しい局面を迎えており、その盛衰の最後のドラマを演じていたのがこの夕張であった。
 夕張は、最盛期には人口が12万人もおり炭鉱が24もあったという。そして当時、妖怪、天下の政商 萩原吉太郎が最後の勝負に出たのが『夕張新鉱』という新しい炭鉱であった。
 そもそも萩原率いる北海道炭鉱汽船は、北海道の石炭産業で莫大な利益を上げ、道内でナンバーワンのホテル札幌グランドホテルを初め、三井観光開発など当時の名だたる優良企業を次々に立ち上げていた。
 しかし、この『夕張新鉱』がガス突出事故で93名の犠牲者を出し、かすかにともっていた夕張の灯は、いや北海道の石炭産業の希望の火は一気に消し飛んでしまったと言っても過言ではない。
  
 私は、当時道庁で石炭対策本部という通産省ラインのセクションとともに、労働部の石炭対策と議会対策の担当責任者として、議会の石炭対策特別委員会に毎回出席していたが、毎日が本当に地獄のような日の連続であった。
 この委員会の委員は、野党の社会党は、ほとんどが夕張を中心とする炭鉱(炭労)の出身者が多く、議論にも切羽詰まった現実感と迫力があって、道庁側は産業政策でかなりやり込められた。
 私が担当している対策は、炭鉱離職者の雇用対策だから何とかしのぎようがあるが、産業政策のほうは、一つの産業が崩壊していくわけだからそう簡単な代替策は、見つかるはずもなく、そばから見ていても気の毒なほど野党に攻め込まれていた。
 
 ただ一つの救いは、国に対する石炭産業の救済策を要請するということのみで、その陳情のために、上京して私も道議会議員にくっついて通産大臣や労働大臣のところをまわって歩いた。

 このころ夕張は、若いやり手の中田鉄治という市長が観光産業に活路を見出し、それへの転換を図るべく奔走していた。
 私は、その動きを当時横目で見ていたが、その成果は、歴史村や夕張メロンの振興策などに繋がっていった。しかし、観光と言っても民間の資本の投下は少なく、そのほとんどが官製系列のもので、いずれもそんなに甘くはない。
 
 炭鉱が閉山になると、ちょうどアメリカ映画の西部劇のゴールドラッシュのようにその地域の町全部が廃墟となり、人の住んでない炭住や入り口に板を打ち付けた店舗だけの見るも哀れ、凄惨なゴーストタウンが当時の夕張にはあちこちに沢山見られた。
 
 私は、これらの街の様子や動き始めた石炭にまつわる観光施設を家族に是非見せたいと思い、ゴールデンウイークに札幌の駅前からバスに乗って夕張に向かったが終点の夕張で降りたのは我々の家族4人だけで、新しく作られた観光施設への入館者も我々を除くと2,3人だけであった。
 
 全国に名高い名産の夕張メロンも今も季節になると北海道の知人から送ってきて美味しくいただいているが、高級感だけが先行して値段も高いせいか内地では人気がもう一つである。
 私が北海道に勤務しているときに、一度宮古へのお土産にと4個入りの夕張メロンを一箱買って、花巻空港に降りてひどい目にあったことがある。大きな重たい箱を持って空港をあちこち探し回ったが盛岡への直行のリムジンがない。仕方なく各駅停車のローカルバスに乗って盛岡に向かい、宮古まで行ったのだが、お土産の夕張メロンは我が家ではあまり喜ばれなかった。きんかんやもっと安くて美味いメロンが岩手にも沢山あり、夕張メロンに思ったほどの価値が得られず私は、がっかりしたことを覚えている。

(続く)

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