ノンジャンル No.098

投稿日 2007/ [調査リポート1] 菊池金吾と賜松園(ししょうえん)
寄稿者 八柳修之
 
ご巡幸行在所の菊池邸 (盛岡市立図書館所蔵)
 
附属の同級生には旧家、老舗が多い。実はこれまで、肴町の裏通り、餌差小路にある賜松園、かつて菊池貞武さんの邸宅であったことを、極く最近まで田口絢子さんから聞くまで知らなかった。
菊池貞武さんは、城南小学校からの入学でした。貴公子の顔立ち、訛りもなく、おっとりとしていた。なるほどいいとこのお坊ちゃま、だったのだ。
訛りがなかったことだけではなかろうが、のち、ニッポン放送に入社し、深夜番組のパーソナリティとして、のち社長となったアンコウとともに受験生に人気があった。

さて現在、賜松園の敷地の大部分は市の老人福祉施設センターになっている。この建物の裏には、江戸時代末期からの池泉回遊方式日本庭園が残り、市の保護庭園に指定されている。庭園だけでも1,200平米というから、その敷地の広さには驚きである。子供のころ、賜松園には入れなかったが、現在は市民に開放されているとのことである。

この菊池邸(賜松園)、明治天皇が明治9年(1876)と14年(1881)の2回、東北にご巡幸をされたとき、貞武さんの曽祖父(?)菊池金吾邸が行在所(天皇の巡幸中の仮御殿)となったのである。現在でも、天皇が地方視察の際、お泊りになるとお宿は名誉なことであるが大変なことである。当時としては、驚天動地の出来事であったことは想像に難くない。
肴町から福祉センターに向かう道(角は内山硝子店、内山さんは小学校まで同級)は、御幸新道と呼ばれている。天皇がお泊りになる菊地邸に向かうときに裏通りを通るのでは具合が悪いということで、肴町の一部家を取り壊して菊池邸正門から入る道を新設したものであるという。確か記念の石碑が建っていたと記憶する。

なぜ、菊池邸が行在所として白羽の矢が当たったのであろうか。なぜ愛宕町の南部邸ではなかったのかという疑問もあろう。それは最後の南部藩主、南部利恭が廃藩置県により明治政府から放逐され、明治3年、(1870)に東京在住を命じられ、盛岡には居なかったのである。お城も愛宕町の南部邸は取り壊され、南部邸は、明治41年(1908)に再建されるまで荒れ放題の状態となっていたのであった。
 
菊池 金吾
 
ところで、菊池金吾とは、一体どんな人物であったのであろうか。
菊池金吾(1812〜1893)は、機織業の先駆者で、盛岡先人記念館にその偉業が紹介されている。「Webもりおか」に記事があるので、一部引用して紹介しよう。
「菊池金吾は文化9年(1812)、稗貫郡亀が森村(現花巻市大迫町)に盛岡藩士藤枝宮内家臣菊池弥兵衛、セキの三男として誕生した。文政9年(1826)、盛岡に出て老職花輪伊豆に仕えた。のち大石家の養子に入り、大石金吾と名乗る。
このころ上下の信頼を得て、天保11年(1840)には日詰蔵奉となった。その後、勘定奉行、金山御用掛、軍艦製造御用掛を歴任、嘉永5年(1852)には100石を給せられ、菊池氏に復している。しかし、金吾を抜擢した南部利恭の失脚とともに蟄居を命じられ、以後、明治元年まで幽閉され、藩の公務から遠ざかった。その間に佐藤清右衛門とともに家産の利殖を図っている。
明治6年(1873)1月、県令 島維精とともに地元の殖産興業を図るため、中の橋際に勧業場の開設を計画、同年12月に設置した。ここで盛岡藩士の子弟たちに機業を習得させた」
菊池邸は以前、花輪伊豆の屋敷だったものを、明治元年(1868)に買取ったものである。

明治天皇は菊池邸にお泊りになったのは、ほかに適当な行在所となるべき所が、なかったからであろうか。私はそれだけではなかったと想像する。
岡田益男「東北御巡幸」(Web河北新報社「東北物語伝承館」)に次のような記述がある。
「明治天皇が岩手県で意をとめられたのは、金吾の岩手工業であった。
菊池は盛岡呉服町で機業場を設け、専ら力を勧業に務めた。金吾は富農の家に生まれたが、よく善行を好み、廃疾者困窮者を援け、常に米や金を備えて学校へ寄付した。従来、盛岡の機業が振るわず、他地方の工人に依存しているのを嘆いて、士族が無為徒食しているのを心配して機場を開き、特に婦女子が機業にいそしむことを奨励した。当時は240名の従業員がいたという。天皇は金吾を褒賞した」とある。天皇は金吾に関心があり、褒めてやりたかったのであろう。

殖産興業は、明治政府、各県にとっても急務であった。岩手の殖産興業政策に推進に尽力したのが、初代県令の島維精(明治4年~17年まで)であった。
島は着任早々の5年1月、養蚕係りを設け、養蚕の振興や開墾事業に着手した。
9年に内丸に勧業場が設けられた。
菊池の機織工場は、元郵便局の辺り、現在のプラザおでってからホテルプライトイン盛岡の付近にあったとされ、ホテルの中津川側に碑が建っているとのことである。田口さんに確認を依頼中である。

ここで、なぜ菊池邸を「賜松園」と呼ぶようになったか、盛岡の人は先刻ご存知のことであるが、あえて記します。
明治天皇が、明治9年、最初に菊池邸のお泊りになったときに、庭に見事な枝振りの松があり大変気に入られた。14年に再びお見えになったとき、前回のことを思い出され、「見馴の松」と名付けられ歌も詠まれた。
この後、17年11月、盛岡に大火があり、菊池邸も罹災し、「見馴の松」も焼失した。このことが天皇に達し、宮廷に招かれた菊池金吾に松の木三本が下賜された。その後、庭園は「賜松園」と呼ばれ、有栖川宮熾仁親王の筆による石碑が園内に建っているそうである。

また、天皇がお泊りになられた菊池邸の御成の間は、昭和59年、中央公民館(旧南部邸)の移築され「聖風閣」と呼ばれ、現在、お茶会の席などに利用さているという。中央公民館内に移築された旧中村家住宅ばかりに気がとられてしまった。
蛇足になるかもしれないが、「もりおか物語」(企画・盛岡の歴史を語る会)によると、菊池第三(菊池貞武さんのお父上?祖父?)は宮内省の式部官をされたとの記述がある。とすれば、貞武さんの上品な立ち振る舞いは理解されるというものである。
(続く)
参考資料:
 盛岡市ガイド、盛岡の先人たち、「ウェブもりおか」
 岡田益男「東北御巡幸」 Web河北新報社「東北物語伝承館」
  明治9年7月の巡行では、盛岡の後、渋民村の駒井太兵衛方で昼食という記録がある。
  駒井義明さんの本家ではないでしょうか。今でも玉座をそのままにしてある由
 細井計一ほか 「岩手県の歴史」山川出版社
 高橋 智 明治天皇御巡行の名残  街もりおか」 07年2月号 田口さんよりいただく。
 盛岡の歴史を語る会 「もりおか物語」 熊谷印刷 図書館で取り寄せました。
 盛岡市中央公民館案内小冊子  以上

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