ノンジャンル No.099

投稿日 2007/07/01 [調査リポート2] 続・菊池金吾と賜松園
           (高野善夫氏のメール紹介)
寄稿者 八柳修之

先日、博覧強記の高野善夫さんと親しくお話する機会があった。話題は菊池金吾と賜松園の話となった。なぜ、明治天皇が二度も菊池邸にお泊りになられたのか、他に適当な宿舎がないという物理的な理由からだ、と自分ながらに解釈していたが、高野さんの話を聞いて、どうもそういう理由からだけではないと思うようになったというお話を披露します。

「菊池姓は熊本県菊池市をルールとする名族であることは、よく知られていますが、なぜか菊池姓が全国的にみて多いのは熊本県ではなく、なんと岩手県、とりわけ遠野地方に多いのです」と興味深い話から始る。なるほと、同級生の中に3人もの菊池姓がいる。
そして、菊池一族が奥州に下向してきたことを調べている人がいるという。
附六会の細越麟太郎氏の弟さん、細越弦二郎氏がその人である。
以下は、高野さんと高野さんを通じてご了解を得た細越氏のメールを掲載するものです。このメールを私限りにするのは勿体ない内容だから披露することにしたのです。(以下『 』内メール)

『実は、細越弦二郎氏とその祖先である菊池一族の東北移転についての論文を語るためには、長い長い説明文を付けなければならないのです。
彼はその研究のために定年退職後東京での生活を離れて、先祖伝来の地である遠野に家を建てて独り住み着いており、研究はだいぶ進んでおりますが、まだまだ先が長いようです。(注:現在、遠野市に編入されているが、細越村という村があった由)』

このメールと前後するが、細越氏から高野氏あてのメール。
『先日の賜松園と菊池金吾のお話は、早速遠野に居る細越弦二郎氏に問い合わせいたしましたところ、次のような回答がありました。
?「菊池金吾と賜松園に関しては、金吾の縁戚である入内島一崇(いりうちしま・かずたか)さんが『遠野菊池党』(自費出版ー451ページ)で当時の写真入りで詳しく載せております。 また『盛岡四百年』の下巻には賜松園へ向かう天皇の行列の様子や賜松園の外観なども載っております。 当時、南部家は借金だらけで余裕もなく、逆に、商人や副業に力を入れていた武士(菊池氏の多く)が伸びてきていた時代ですね。
『菊池家憲』が『大日本帝国憲法』の素案に採用されたり、徳川光圀が湊川神社をりっぱな神社にして以来、天皇家も何かと心を尽くしてくれた様です。 
明治になり、天皇家はやっと大々的に行い、皇居にも銅像(注:楠正成)を置く様になった、とのことです。 入内島一崇さんの著書を未だに読んではいないのですが、かなり詳細に書かれている様です。 細越』
?
以下、高野さんのメール。
『私は現在までに纏められた彼のレポートについては入手して読んでおりますが、わが国の歴史の中でもあまり多くが語られていない南北朝時代に、遠い九州の地からほとんど一族を挙げて東北の、しかも江刺、遠野などを中心とする草深い地域に移り住んだ菊池一族の歴史は想像以上にドラマティックであり、多様な事件とも係わりあって、限りなく興味を引かれます。

たまたま先日教えていただいた賜松園と菊池金吾のお話は、菊池一族との関連をすぐに連想させ興味をそそられたのでした。最近私はドナルド・キーンの「明治天皇」を読んだばかりでしたので明治天皇がどちらかというと北朝寄りの血統をひいておられるのにもかかわらず、強く水戸光圀の歴史観に影響され、自らをほとんど後醍醐天皇と重ね合わせて意識されていた方であることを知りました。
明治維新を達成された慶応4年(明治元年)に五箇条の御誓文などと時を同じくして、楠正成の霊を慰めるために神戸に湊川神社を、そして熊本には菊池神社を官幣大社として建立しているのです。

そして楠正成の子孫を探し出させて男爵の爵位を与えたと書いてありました。
南北朝時代、後醍醐天皇の下で数々の戦果を挙げながら滅び去った菊池氏の子孫というご縁もあって、二度も菊池氏の私邸を宿泊場所として選ばれたのではないかと私(高野)は想像するのです。
当時旧藩主である南部家を差し置いて、2度もどちらかというと家臣筋の家に宿泊されるという決定は、いかに藩主財政逼迫の折とは言っても、かなり異常なことだったように思われます。
菊池氏のことは本には触れられていませんでしたが、ウェブで見る菊池金吾の写真は明らかに爵位を持つものの装束をしています。
そして、細越氏に伺った結果、やはり菊池一族としても名誉のこととして『遠野菊池党』(入内島一崇著)の中に写真入りで詳しくこのことを書いているようです。その内容は細越氏もまだ読んでおられないようですが、恐らく私の推論を裏書するような記述ではないかと想像します。(盛岡の図書館にでも行けば読めるはずです)?高野善夫』

菊池金吾の息子、菊池第三(貞武さんの祖父)は宮内省式武官を務めたということも、頷けるというものである。現在でもそうだが、宮内庁勤務は誰彼できないそうである。また、下の菊池神社の由来にみるごとく、名には代々「武」をつけるようだ。
(続く)
 
菊池氏紋「並び鷹の羽」
 
菊池神社 
 蒙古襲来のときに活躍し、後醍醐天皇の倒幕活動に尽力し、菊池武時・武重は北条氏の軍と戦って討死した。武光は父や兄の遺志を継いで南朝に尽くし、後醍醐天皇の皇子懐良親王を奉じて一時は九州一帯に南朝全盛期を現出した。菊池神社は武時・武重・武光を中心として菊池氏一族を祀っている。また、同神社の地は菊池氏の居城であった隈府城の地であり、加藤清正が熊本城を築くまで、肥後国の中心地でもあった。
 神社の境内に足を入れると、菊池氏の紋である「並び鷹の羽」がいたるところで見られる。また本殿に向かうと南朝に尽くした菊池氏にふさわしく「菊花」紋が据えられている。
  (菊池神社HPより)

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