ノンジャンル No.100

投稿日 2007/07/06 [調査リポート3] 続続・菊池金吾と賜松園
           (細越弦二郎氏メール紹介)
   〜菊池金吾邸が行在所となった理由〜
寄稿者 八柳修之

細越弦二郎氏から、入内島一崇著の「遠野菊池党」の中の、菊池金吾についての記述部分の抜粋が送られてきました。前半は金吾の生い立ち、幕末の南部藩の事情について、後半に。なぜ菊池金吾邸が行在所となったかの理由について述べられている。『  』内、細越弦二郎氏メール

『菊池金吾は文化九年(1812)九月九日、稗貫郡亀ヶ森村(現、花巻市大迫町亀ヶ森)、自作農家、屋号“川原田(からだ)”菊池弥兵衛の三男として生まれた。 収穫到来の前に生まれた吾子は豊穣の使いに思えた弥兵衛は金吾と名づけた。 ちなみに次男の三弥の後裔には江頭安太郎、海軍中将の子、豊氏に嫁いだ寿々子、その間に生まれた優美子は小和田恒、国連大使に嫁ぎ、雅子皇太子妃が生まれている事は有名である。
金吾は、彼が十五歳の時に藩の家老職、花輪栄の家人となった。 彼の働き振りから、破格の出世をする。
 
《餌差小路》
戊辰戦争で敗北し、封地を全部没収されても仕方がない所を、格別の御恩によって七万石減封とされたにも拘らず、不満を抱き続ける盛岡藩の家臣団に対して明治新政府は厳しく対応したのである。 官軍が盛岡に進駐して東山道鎮台分営を置いたのが明治元年十一月で、翌月には南部全領地は信州松代の真田藩の支配下に置かれた。 先祖伝来の地を失った南部家臣団に対して新政府は追い立てる様に白石へ移動する様に命令を下したのである。 彼らは白石という慣れない土地での生活で望郷の念がわき、たとえ全てを失っても盛岡へ帰りたいとの請願が南部側から出たときには、莫大な賠償金を課してこれを受け入れ、更には盛岡帰国の為の費用を再び自腹で負担させて、彼らの資産を全部、吐き出させる方針を準備していたのであろう。 こうした状況を菊池金吾は中央から知らされていた。 金吾は十代目徳田屋、佐藤清右衛(注)を呼び寄せて、盛岡藩の白石転封後の善後策を話し合った。 金吾は川原田菊池一族が動かせる金銭を全て集めて佐藤清右衛門に預け、士族が土地建物を二束三文で市場に放出後、直ちにこれを買い取る事になった。 南部士族が盛岡を去った後、彼らの不動産の大半は徳田屋と菊池金吾のものとなった。 金吾が手に入れた土地の中には餌差小路一帯があった。 

《天皇巡幸》
明治五年一月、太政官令により県の設置となり、初代県令は参事で、島惟精がなった。 島県令は士族授産の為、菊池金吾、小野善十郎(小野組)に出資をさせ南部紬の改良に助力させた。 しかし、明治八年に小野組は倒産し、松方デフレも重なり、金吾は窮地に陥った。 金吾は全財産を投げ打ち、兄弟、親戚縁者からの融資を受けて経営に当たった。 『最初工女二百人を収容すべき予定を以って機台二百個を準備したるも、工女の精勤なるものには賞品として機台一通を附与することとみなしたるが為、自然台数の増加を見又其機具は悉く他地方より改良の器機を輸入使用したるに依り(以下略)』(菊池金吾伝)。 金吾は積極的にその質、量ともに高く、量産を行った。 島県令は自分の指示で金吾を窮地に落とし入れ、彼の全財産を放出させ、しかし、金吾は今や島県令の目標を成し遂げたことに感謝した。 『島氏は、君に頼りて官民の連絡流通を求め、県下の平和、幸福を収めんと欲し、朝夕往来して其意を致し兼ねて施政上に就きて諮詢する所あらんとせるに君は其器にあらざる旨を述て 辞退再三に及びたれ(以下略)』(菊池金吾伝)。 こうした状況下の中、中央では明治天皇の東北御巡幸が決定された。
 
《金吾邸、行在所となった理由》
島県令は本来であるならば旧藩主邸か大寺院を行在所として用意するべき処であるが、旧藩主は奥羽維新戦争における戦争責任を問われ官位剥奪、城地召上げの処罰を受けた身であるから、天皇を自分の屋敷に お迎えし得る資格がないと断じた。 そして、菊池金吾邸を行在所に推挙する理由として、
1. 菊池金吾の実家である川原田菊池氏が南朝の忠臣である菊池九郎武敏の末裔である。
2. 奥羽維新戦争時には、十二代藩主・利済にまつわる政争によって処分され、蟄居中であった為、戦争遂行に一切関与していない。
3. 金吾の甥である野辺地尚義は官軍参謀総長であった大村益次郎の代理として一時期、長州藩の外国語学校の教師を務め、木戸孝允、伊藤博文などの長州勤皇派と深い交流がある。
などを書き上げ、宮内大少丞に届け出た。 これに御巡幸に同行する木戸孝允内閣顧問の口添えもあって、五月には金吾邸を行在所とする事が正式に決定された。 それを見ると岩倉具視右大臣は餌差小路の瀬川安五郎宅、大徳寺宮内卿は餌差小路の堀江澄宅、木戸孝允内閣顧問は紙町の村井弥兵衛宅、大隈重信参議兼大蔵卿は呉服町の井上覚兵衛宅、土方久本大史は紺屋町の村井茂兵衛宅と、いずれも盛岡を代表する豪商の屋敷が指名され、旧藩武士階級は一つも入っていない。 ここにも明治政府の朝敵に対する厳しい姿勢が窺える。

《御巡幸明細日誌》
菊池金吾は、旧藩の士族にて、客歳新築の家なり、今度、行在所に願ひたるより、肴町通りを横に、御道筋を広める為、間口三間半、奥行二十六間の家作と地面を買取り、新道を開き、左右へ幕を張り、提灯を列ねたり。 御座の間も、殊に清潔にて、夜間は、庭中の樹木へ多くの小提灯を結び下げて御覧に入れたり。

《賜松園の名の由来》
菊池金吾邸の庭園の老松は明治九年七月七日、ある事が切っ掛けで明治天皇の御眼鏡に適い、『見馴れの松』という名前まで頂戴した。 その切っ掛けというのは、行幸二日目の七月七日が非常に暑い日で、御視察から行在所に戻られた天皇は庭の松の下に玉座を移され涼をとられたところ、清風颯然として起こり涼気水の如くになった。 この時、天皇は「朕はこの松を忘れない、松もまた朕を忘れないだろう」と仰せになったと言われている。 しかし、この見馴れの松は明治十七年十一月四日、監獄から出火して河南地区を総なめにした盛岡大火によって金吾邸も類焼した際に、残念ながら焼失してしまった。 
その後、この話が天皇の御耳に入ると、明治十九年五月に石井岩手県々令に託して稚松三株を金吾に届けよと仰せられた。 これを伝えられた金吾は、陛下からの御下賜品は自ら赴いて拝領しなければ申し訳がない、と言い、時に金吾は七十一歳の高齢にもかかわらず三人曳きの人力車を仕立てて上京、宮内省で稚松を受け取ると直ちに盛岡に引き返し自邸の中央に移植した。 金吾邸は『賜松園』と呼ばれる様になった』

これを読んだ高野善夫氏からのメール
『これを読むと、まだ戦塵くすぶる幕末にあっては、朝敵となった南部藩に対する当時の明治政府(天皇を含めて)の姿勢が、いかに厳しいものであったか、結果として、藩主を始め当時の武士階級の窮迫ぶりがいかなるものであったかが想像されます。

それに反して、どちらかというと地方の武士であった菊池一族などは過去からの蓄財を利用し、また新しい産業などのビジネス・チャンスにもいち早く乗って、まさに振興ブルジョワ的繁栄を遂げつつあったのでしょう。その現象が幕末の動乱期にあって、この時、達しようとしていたと考えられます。
もちろん旧支配階級の武士達に中でも、三田氏のように目端の利く武士達には
ブルジョワ化するチャンスもあったことでしょう。
また、近江系の盛岡の豪商の多くは藩や武家への貸付などで、焦げ付きもあったでしょうが、それぞれ大活躍したものと考えられます。

それに加えて、菊池金吾は南朝以来の忠臣の家柄という要素が重なって、明治天皇には特別可愛がられる存在ではなかったかと想像されるのです。
もちろん、金吾の甥である野辺地尚義の存在や、島県令との好関係など、数々の要素が幸いしたかもしれません。
「見馴れの松」の逸話は、このような菊池金吾の不思議な幸運を説明する恰好の寓話であったように考えられます』

(注:八柳)
徳田屋、佐藤清右衛は「徳清」で知られています。矢巾村の徳田から盛岡に出て、最初、畳屋に奉公、のち、酒、味噌、醤油の醸造、米屋となり、藩の御立入商人となる。盛岡銀行(岩手銀行の前身)の初代頭取を務めるなど盛岡金融界の先駆者。明治橋を渡って右側に壁から母屋まで土蔵造り家があったことを覚えている人も多いでしょう。

最後に、私の単なる好奇心が、高野善夫氏、細越弦二郎氏によって満たされ、(続続)までになった附属の同窓生に深く感謝申し上げます。
(完)

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