盛岡発 No.128

発信日 2007/01/17  ♪振り向くなよぅ・うつむくなよぅ♪
発信者 袰岩弘道

 群集の熱狂的な声援に商店街が埋もれてしまったような盛商サッカー部の凱旋パレードも終わって、肴町から盛岡駅までの沿道はもとの町並みを取り戻しました。
あの日は盛岡のどこにこんな人が住んで居たのかと思うほどの人・人・人でした。
そんな人垣を縫って齋藤重信監督をカメラにおさめようと走り回りながら25年前の高校サッカーとの初めての出会いを想い出していました。

 テレビ局で事業部長という職を拝命して最初の仕事が高校サッカーの担当でした。県のサッカー協会と共同で県大会を開催し代表校を決める。開・閉会式を仕切って観客動員のために知恵をしぼり、スポンサーへの挨拶回りなど私のイベント屋としてのスタートです。当時はまだ一県一校の代表ではなく岩手は青森との勝者が代表として全国大会に出場できたのです。その頃の青森は五戸と三本木農業が強豪校でしたが、岩手勢は難なくこれを倒し全国大会へ駒を進めていました。
その頃から盛岡商を率いて頭角を現してきたのが若き日の齋藤重信監督でした。その後今日にいたるまで(彼が一時期大船渡高に行き県大会で優勝した時を除いて)ほとんどが盛商と遠野高とで優勝を分け合うことになります。

 代表校になるといよいよお正月の全国大会が待っています。元旦恒例のサッカー天皇杯の試合前が高校サッカーの開会式です。憧れの国立競技場の土を踏ませてあげようという主催者の心くばりだったのでしょう。国立の舞台は当時は決勝戦のみでしたから。そして翌二日から首都圏の分散会場で大会が始まるのです。
元旦の朝の新幹線は寂しいものです。Uターン客は流石に少なくて一輌の箱の中にほんの数人が乗っているだけ。この列車は空気を運んでいるのでは‥と思いながらその後しばらく私の正月の日課になってしまいました。

 大会本部は御茶ノ水の駅に近いホテル聚楽でした。三が日は近場のお食事処が店を閉めているので系列局のサッカー担当者がそれぞれの地元の名物を持ち寄って交換しながら食べたものです。我々の仕事は地元チームの後方支援で宿舎にミカン箱を差し入れたり、応援サポーター達に限られた招待入場券を配ったり、たまにはゴールポストの横でスチル写真を撮ったり‥と戦っている選手に比べたらのどかなものです。各競技場にはスタッフ用の飲食物がふんだんに用意されていて、カップ麺に熱湯を掛けてフーフー言いながら試合の合間に箱根駅伝を見たりもしてました。
  
 当時の常連校は帝京(東京)国見(長崎)韮崎(山梨)四日市中央(三重)武南(埼玉)鹿児島実業そして激戦区静岡勢はどこが来ても強かった。市立船橋(千葉)が出てくるのはその後のことです。さてそんな中サッカー担当者のための研修会で国見高校の小嶺忠俊監督から聞いた話が忘れられません。「高校生の資質なんてネ基本的には大した違いは無いんですよ。要は指導者次第なんです」同じような事を後年、盛岡に招待した帝京高校の古沼監督も言ってましたね。たしかに小嶺監督は国見高校の前に同じ長崎の島原商業を率いて全校優勝しています。
まさしく齋藤監督が大船渡高校に移っても県大会で優勝したことに共通しています。

 もちろんその頃は県の代表チームが国立まですすめるなんて思ってもいません。
準々決勝まで行くのが精一杯でしたから。
だからパレードの最中に齋藤監督の傍に行けたら一言「長いことご苦労さんヤット頂上にたどり着いたネ」って声を掛けたかったのですが、彼は群集のズーット先にいてささやかな我が願いはかなわず、撮ってきた写真に向かって小さく「オツカレさん」とだけつぶやいたのでした。
優勝した監督に涙はなかったのに、このサッカー老人はなぜかウルウルしました。

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